手塚治虫の功績について再考してみた件 ⑭ アトムのビジネス的成功とテレビアニメブーム

前回は、『鉄腕アトム』がスポンサーとテレビ局が決定し、実際に放送されると瞬く間に視聴率30%台を維持する人気番組となったことを取り上げました。

『鉄腕アトム』の人気は各方面でも話題となり、虫プロのもとには、玩具や文房具、衣料品などのメーカーからアトムを商品に使用したいという申し込みが相次ぎます。
ディズニーでは、日本にも法人を置いてロイヤリティビジネスをしていましたが、当時の日本企業でキャラクターの版権をちゃんと管理してロイヤリティを徴収するようなところはありませんでした。
手塚治虫はディズニーの事情にも詳しかったことから、虫プロでも版権部を設立して、ディズニーに倣ってマーチャンダイジングに取り組むことにします。

当時、『鉄腕アトム』のスポンサーとなった明治製菓は、業界1位の森永製菓とチョコレート商品でしのぎを削っており、明治製菓の糖衣チョコ菓子「マーブルチョコレート」(1961年2月発売)は、後発商品である森永製菓の糖衣チョコ菓子「パレードチョコレート」(1962年11月発売)にシェアを奪われ、かつては9割を占めていたシェアが3割まで落ち込む劣勢状況となっていました。
明治製菓では、起死回生をはかるべく、人気アニメとなった『鉄腕アトム』のグッズ「アトムシール」を開発し、1963年7月に商品の蓋2枚を明治製菓に送ると三種のシールがランダムでもらえるキャンペーンを実施します。これが大ヒットとなり、子供たちはシールを全種類集めようと何個も買って応募したため、応募総数は500万を超え、年間売上58億円という爆発的な記録を打ち立て、「パレードチョコレート」との差を逆転させることに成功します。
翌年からは「マーブルチョコレート」には小さな「アトムシール」がオマケとして封入されるようになり、これが現在に続く人気キャラクターとタイアップしたオマケや懸賞による販売戦略の元祖になったと言われています。
実際、1960年代後半から明治製菓、森永製菓、グリコによる三つ巴の玩具合戦が繰り広げられることになりました。

当時の「マーブルチョコレート」の定価は30円で、その内の3%がロイヤリティとして虫プロに支払われるので、単純計算でも1臆数千万円ほどの収益があったことが推測されます。
「マーブルチョコレート」のみならず、アトムを象った玩具の他、ノートや消しゴムなどの文房具から子供服、靴、帽子、ハンカチ、タオル、傘、バック、茶碗、コップ、箸、弁当箱など、子供用のあらゆる日用品にアトムがつくようになり、虫プロに莫大な版権収入が入って来るようになりました。

マーチャンダイジングによる版権収入だけではありません。
萬年社の穴見薫が仲介して、海外番組の輸入業者であったビデオプロモーションが売り込むことになり、その結果、アメリカ3大ネットワークの一つNBCが購入を決定します。
契約金額は1本1万ドルで52本を購入してもらえることになり、1963年5月に手塚治虫が自ら渡米して契約調印に臨みました。
当時のドル円相場は1円360円でしたから、日本円で1臆8720円になります。ビデオプロモーションに仲介手数料を支払うので、全額が虫プロに入るわけではありませんが、それでも充分に大きい収入です。

手塚治虫は、『鉄腕アトム』の放送前にはマンガの原稿料で赤字を補填すると公言していましたが、蓋を開けてみたらそんな必要は全くなく、版権収入と海外販売で莫大な収益を上げることになりました。
このことは業界内でもあっという間に知れ渡り、手塚治虫が懸念していた追従者が現れます。

驚くべきはそのスピードの早さで、『鉄腕アトム』が放送開始した1963年の10月には横山光輝のマンガ原作でTCJ(現・エイケン)制作の『鉄人28号』が、11月には平井和正・桑田次郎のマンガ原作で同じくTCJ(現・エイケン)制作の『エイトマン』と、東映動画制作のオリジナルアニメ『狼少年ケン』が放送を開始。
さらに1964年には3作品、1965年には14作品と新作アニメの放送が開始するなど、あっという間に30分枠のテレビアニメが量産されるようになり、週20本以上の国産アニメが放送されるテレビアニメブームが巻き起こることになります。

低コストで作ったアニメでも、ストーリーが面白ければ子供たちから支持され、人気が出ればキャラクター商売で儲かることを『鉄腕アトム』は実証してみせました。
時はマンガブームでしたから、実績のあるストーリーやキャラクターを持つ原作に事欠くことはなく、既に人気を獲得しているマンガを原作にテレビアニメを制作すれば、成功は約束されたようなものです。
高い技術がいらない低コストでのアニメの作り方から、収益性を確保するビジネスモデルまで、『鉄腕アトム』はわかりやすく示してくれていましたから、元々アニメを作っていたようなプロダクションが、これを模倣するのは容易なことだったのです。


数回にわたって解説した通り、手塚治虫と虫プロは、ディズニーやフル・アニメーションを信奉するあまり誰も手を出そうとしなかったテレビアニメに挑戦して成功しました。それも生半可な成功ではなく、最大手の東映動画ですら成し遂げられなかった未曾有のビジネス的大成功を収めたのです。
これは、当時のアニメ業界にとっては「アトムショック」とも呼ばれる程にインパクトのある出来事で、「テレビアニメなんか」と歯牙にもかけなかった業界全体が、俄然テレビアニメに乗り出すことになり、アニメの主流が、劇場長編アニメからテレビアニメに移る時代の変化が起こりました。
手塚治虫が「テレビアニメの父」と呼ばれるのはこれが所以であり、その尊称に相応しい功績を上げたことは間違いないでしょう。

事はテレビアニメに留まりません。
実は東映動画では、売上に対して制作コストがかかり過ぎる劇場長編アニメのビジネスモデルが行き詰まりを見せており、会社内部では、コストダウンを図るために管理を強めようとする経営陣と待遇改善や自由な制作を求めるスタッフとの間で対立が起こり、労働組合運動が巻き起こっていました。
他の制作会社でも、芸術的なアニメでは収益性を確保することができず尻つぼみになって解散するしかなく、経営的に安定しているのはテレビCMのためのアニメを制作しているような一部のプロダクションに過ぎないといった状況でしたから、このアトムショックのおかげで、業界全体がテレビアニメで儲けることができ、その命脈を保つことができたわけです。

逆にこのアトムショックがなければ、日本のアニメは現在のような発展を見せることなかったかもしれません。
東映動画も縮小もしくは撤退を余儀なくされ、日本におけるアニメは、ヨーロッパのように、子供向けのものや芸術的なもの、風刺ものといった内容の短編モノか劇場長編アニメが、年に数作品もしくは何年かに1作品といった程度で作られるような世界になっていた可能性も考えられるでしょう。

マンガの時と同様、手塚治虫自身が過酷な超過労働という制作スタイルを自らに課していた影響で、アニメーターとはかくあるべしとでも言うような、長時間労働を肯定しがちな誤った価値観を植え付けてしまったことは、完全には否定できないでしょう
ただし、昭和という時代は、日本全体が過重労働に対する認識が低い風潮があり、手塚治虫だけの責任とは言い難い面もあり、時代が下って価値観や認識が変わる中でもそれを改めなかった後続者たちの責任の方が大きいはずです。

今日のアニメが、現在のような多様性に富み、大人から子供までが楽しめるコンテンツとなっているのも、年間200タイトル以上の新作テレビアニメが作られ、1週間に70本以上もの作品が放送されているのも、手塚治虫という存在なしにはあり得ないものだったことは間違いがなく、その功績は計り知れません。

〈了〉


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虫プロ社員は他社よりも高賃金で知られ、金銭面では優遇されていましたが、その労働環境は劣悪でした。
高賃金をウリに東映動画から優秀な人材を引き抜いていたくらいで、一般家庭の自動車保有が珍しかった時代にありながら、虫プロの社員の多くが自家用車を持っており、虫プロの駐車場には常に社員の車がずらっと並んでいたそうです。
その反面、毎週放送のアニメの制作に追われ、長時間労働が慢性化していたのも事実で、この労働環境はなかなか改善されなかったようです。


手塚治虫の功績について再考してみた件
① 最近の若者は手塚治虫に馴染みがない
② 赤本から貸本へ、マンガのスタイル変革
③ 手塚治虫は海賊王
④ トキワ荘の功績
⑤ アシスタント制度の確立
⑥ マンガ家への功罪
⑦ アニメを作るためにマンガ家に
⑧ アニメ制作の実現
⑨ 虫プロの創設
⑩ 『鉄腕アトム』という常軌を逸した挑戦
⑪ 非常識アニメ『鉄腕アトム』の実現
⑫ 商品としての『鉄腕アトム』の価格
⑬ 『鉄腕アトム』放送開始
⑭ アトムのビジネス的成功とテレビアニメブーム