手塚治虫の功績について再考してみた件 ⑤ アシスタント制度の確立

現在のマンガのアシスタント制度は、手塚治虫が作ったと言われています。
この真偽は明確に研究されてはいないようですが、手塚治虫が意図して作ったというよりは、自然と出来上がっていったという方が実態に近いようです。

手塚治虫以前にもアシスタントに近いものは存在していました。
『サザエさん』の長谷川町子は、『のらくろ』の田河水泡に弟子入りし、内弟子として11か月間ほどを田河家で生活したそうです。
これは現在のアシスタント制度ではなく、徒弟制度というもので、無給で家事や師匠の身の回りの世話や雑事をこなし、近くで師匠の仕事を見られる環境で職人の技術を習得していくというものでした。
弟子は仕事の合間や終了後に技術を磨き、師匠が認める程にまで成長した暁には、師匠の口利きで仕事先や依頼人を斡旋してもらい、独り立ちをします。
長谷川町子の場合も、師匠である田河水泡の口利きにより「少女倶楽部」で漫画家デビューを果たしました。

手塚治虫以前のマンガは、1話2~4ページ程度でしたから、個人作業で完結するものでした。
弟子がマンガのいろはを学ぶために、ベタ塗りなどのごく簡単な作業を手伝わせてもらえるということはありましたが、それはあくまで”させてもらえる”というものに過ぎず、作業の補助や効率化のためのアシスタントとは性質が異なります。

手塚治虫もページ数は多かったものの、当初は全ての作業を一人で行っていました※1
そこへ上京したばかりの安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)が、手塚治虫の忙しい様子を見かねて手伝いを申し出たそうで、安孫子の実力を知っていた手塚治虫は、ベタ塗りだけではなく、背景などの作業も任せたそうです。
その後も当時高校生だった石ノ森章太郎※2や松本零士※3なども手伝いに駆り出されたそうで、同時に10本以上も連載を抱えるようになる手塚治虫の制作は、およそ一人では熟せるものではなく、手伝いは必須となっていきます。

水木しげるをモデルにした『ゲゲゲの女房』でも、マンガ制作を手伝っている様子が描かれていましたが、複数の連載を抱えるような人気マンガ家が、一人では手が足りずに手伝いを頼むようになる様子は容易に想像できます。
これは複数のマンガ雑誌が創刊されて、一大マンガブームが起き、手塚治虫のような人気マンガ家に依頼が集中する中で、ベタ塗りやペン入れなどから、主要な人物以外の背景や群衆の描画などを分業させる手法が、その必要性から自然発生的に生じて来たようです。
現在のアシスタント制度と徒弟制度の明確な違いは、給料を支払って雇用しているかどうかだと思いますが、手塚治虫は、やがて専属アシスタントを雇用するようになったため、これが、手塚治虫がアシスタント制度を使ったと言われる所以となっているようなのです。

この明確な雇用関係におけるアシスタント制度は、マンガブームを背景に瞬く間に広がっていき、それはやがてプロダクションと呼ばれる会社組織となっていきます。
手塚治虫がマンガ制作のための会社である手塚プロダクションを設立したのは、アニメ制作のための虫プロダクション(1962年設立)より後の1968年と遅めでしたが、その時には、さいとう・たかをのさいとう・プロダクション(1960年設立)、赤塚不二夫のフジオ・プロダクション(1965年設立)、藤子不二雄の藤子スタジオ(1966年設立)など複数のプロダクションが存在しており※4、人気マンガ家たちは、何人ものアシスタントを雇用して複数人のチームでマンガを制作する体制が確立していたのです。

マンガ雑誌の主力が月刊誌から週刊誌に移行していった時代にあって、一人で20ページ前後の原稿を1週間で制作することは物理的に不可能で、必然的に複数人体制での効率的なマンガ制作になっていかざるを得なかったわけです。
プロダクションを持たないマンガ家の場合は、多くの場合、出版社がプロダクション機能を請け負う形でアシスタントの手配や管理を行っており、現在のマンガ制作においては、『HUNTER×HUNTER』の冨樫義博などの例外を除いて、複数人での制作が当たり前となっています。

当時のマンガ家たちの中には、自分の作品に他者の手が加わることを嫌う者も少なくはなかったようですが、トキワ荘のマンガ家たちなどは、手塚治虫の姿を見てきていることから、マンガ制作を他者に手伝ってもらったりすることに抵抗はなかったようで、手塚治虫やトキワ荘の出身者たちのそうした価値観や意識が、後続マンガ家たちにも受け継がれ、複数人チームにより分業体制が浸透していくことに一役買っていたとも考えられます※5
これは、もちろん手塚治虫が意識的に作り上げたものではありませんし、手塚治虫一人の功績とは言い難いところもありますが、それでも結果的に海外ではあり得ない週刊マンガ雑誌の普及、把握できない程の膨大な作品数やマンガ人口を持つ現在の日本のマンガ文化が創り出されるに至った要因の一端を担っていたことに間違いはないでしょう。


次回に続く。

〈了〉


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※1 証言によると、1952年頃から少年画報社で手塚番編集者(見張り役兼原稿回収担当)をしていた福元一義は、原稿の手伝いもしていたそうです。
ちなみに、その後の福元一義は少年画報社を1955年に退社してマンガ家に転身し、さらに1965年の『マグマ大使』連載開始に伴い、手塚治虫に指名されてアシスタントを務め、1970年には正式に手塚プロダクションに入社。手塚治虫が死去するまで専属のチーフアシスタントを務めました。

※2 手塚治虫は、少年雑誌「少年」1955年1月号の別冊付録で『鉄腕アトム』の読切作品「電光人間の巻」の制作にあたり、電報で宮城県在住の石ノ森章太郎に手伝いを依頼しました。
学生服姿で上京した石ノ森章太郎に、手塚治虫はセリフだけが入った文字原稿を渡し、背景を描いて送って欲しいと頼みます。原稿を持って帰郷した石ノ森章太郎は、自宅でこの作業に打ち込み、手塚治虫のもとに送られてきた原稿には、背景だけではなく、群衆などの人物まで丁寧に描かれていたそうです。

※3 1957年の九州大脱走事件(光文社の手塚番編集者が抜け駆けして手塚治虫を京都へ連れ出したのが発端で、講談社の編集者が、手塚らがいる京都旅館を突き止めて乗り込むも、光文社は自社の原稿が完成したからとあっさりと手塚を引き渡します。その後、講談社は、実家に用事があるからという手塚治虫と共に宝塚へ行き、さらには、西日本新聞の原稿の仕事があるからという手塚に同行して九州へ赴きます。西日本新聞の仕事を終えた手塚治虫は、東京へ帰る時間がもったいないから九州で原稿を描くことにし、この時点で手塚不在で大騒ぎとなっていた東京の編集者たちに手塚の居所が伝えられ、九州の旅館に殺到したという事件)の際に、編集者に見つかって旅館に缶詰状態で原稿を描くことになり、松本零士が所属していた地元の九州漫画研究会に手伝いを頼みました。
仲間と共に手塚治虫の泊まる旅館にやって来た松本零士は、この時は高校を卒業したばかりでしたが、高校1年生の時に「漫画少年」(昭和29年2年号)に投稿作が掲載されてデビューしており実力は充分で、仲間と共に泊まり込みで手伝いをしたそうです。

※4 さいとう・プロダクション、フジオプロダクション、藤子スタジオの他のプロダクションとしては、
吉田竜夫の竜の子プロダクション(1962年設立) ※当初はマンガ制作プロダクションでした。
井上智と平田昭吾の智プロ(1964設立年)
水木しげるの水木プロダクション(1966年設立)
永井豪のダイナミックプロダクション(1969年設立)
といったものが挙げられます。

※5 さいとう・たかをは、トキワ荘とは関係を持っていませんでしたが、1960年に「さいとう・プロダクション」を設立し、映画製作を参考に独自の組織論に基づいた分業制によるマンガ制作体制をいち早く作り上げていました。
手塚治虫やトキワ荘の系譜よりも早い時期に、もっと意識的に取り組んでいることから、さいとう・たかをの先見の明が高く評価されています。


手塚治虫の功績について再考してみた件
① 最近の若者は手塚治虫に馴染みがない
② 赤本から貸本へ、マンガのスタイル変革
③ 手塚治虫は海賊王
④ トキワ荘の功績
⑤ アシスタント制度の確立
⑥ マンガ家への功罪
⑦ アニメを作るためにマンガ家に
⑧ アニメ制作の実現
⑨ 虫プロの創設
⑩ 『鉄腕アトム』という常軌を逸した挑戦
⑪ 非常識アニメ『鉄腕アトム』の実現
⑫ 商品としての『鉄腕アトム』の価格
⑬ 『鉄腕アトム』放送開始
⑭ アトムのビジネス的成功とテレビアニメブーム