手塚治虫の功績について再考してみた件 ⑨ 虫プロの創設
前回は、東映動画のアニメ制作に参画して、大人数による組織での制作では、自身の思い通りのアニメ制作は実現できないと痛感した手塚治虫が、自身のスタジオを作ることにしたことを取り上げました。
手塚治虫は、1960年8月に練馬区富士見台に購入した400坪の敷地へ住居兼仕事場を建設して引っ越します。当時は一面畑だらけだったこの地を選んだのは、練馬に東映動画があったからです。
アニメの仕事をしたかった手塚治虫は、アニメ制作者たちが多く暮らし、その制作拠点がある場所の近くにいる方が便利だろうという計算があったようで、広大な敷地内に、新たにアニメ制作スタジオを併設させる計画で、この広大な敷地を購入したわけです。
『西遊記』でアニメに関わったことで、かつて時期尚早だとして先延ばしにしたアニメ志望に再び火が付いた手塚治虫は、ついに機が訪れたと思ったに違いありません。
当時の手塚治虫は、長者番付(高額納税者リスト)に入る程※1でしたから、そのための資金は充分に蓄えてありました。
『西遊記』で手塚治虫の原作採用を提案した東映動画の白川大介は、手塚治虫のアニメスタジオ計画を聞いて、無謀な計画だとして止めるよう説得し、マンガ家でアニメ制作も行っていた先人である横山隆一※2からも、経済的な理由から長続きせずに絶対上手くいかないと助言されたそうですが、そんなことで手塚治虫は止まりません。
結局周囲の反対を押し切って手塚治虫が手塚動画プロ(手塚治虫プロダクション動画部)を設立したのが1961年6月で、発足時のメンバーは、坂本雄作、山本暎一、広川和行(廣川集一)、渡辺千津子に手塚治虫を加えた5名。
東映動画出身の坂本雄作とおとぎプロ出身の山本暎一が作画担当、手塚のファンクラブメンバーで、高校卒業後に助手志願で押しかけた広川和行が撮影担当、仕上担当には都映画で仕上げをしていた渡辺千津子を雇用しました。
事業計画などはなく、単純に手塚治虫が自費で機材を購入して人も雇い入れ、自宅の庭に作ったバラックで、売り物ではない実験的アニメ『ある街角の物語』の制作をこの4人と共に始めます。
しかし、制作を始めると、アニメーターが坂本雄作、山本暎一の2人だけではどうにもならないことがわかり、増員を決定。新人を育てる余裕はありませんから、経験者を加える必要があり、会社の方針と対立して東映動画を退社していた紺野修司、杉井儀三郎(杉井ギサブロー)、石井元明、中村和子、林重行(りんたろう)といったメンバーを加え、株式会社虫プロダクションとして正式に発足させます。
こうしてメンバーも増員し、1年かけて作られた40分程の習作『ある街角の物語』は、セリフなどはなく、街角のポスターや街並みなどのあまり動きのないものばかりを描き出し、その少ない動きだけで様々な感情を表現したものでした。
この『ある街角の物語』は、手塚治虫たち虫プロメンバーの予想を超えて高評価を博し、芸術祭奨励賞やブルーリボン教育文化映画賞などを受賞しました。
『ある街角の物語』は、1962年11月に銀座のヤマハホールで行われた「第1回虫プロダクション作品発表会」で上映されましたが、この時の発表会では、『ある街角の物語』の他に、短編の『おす』と、そしてもう一つの作品が上映されています。それが『鉄腕アトム』の第1話です。
『ある街角の物語』のようなアニメを作っても、40分程度では単独での興行は難しく、賞を受賞することはできても利益が生まれません。
手塚治虫個人の出資で利益を生まないアニメを作り続けても長続きせず、横山隆一の助言通りとなってしまいます。
そこで手塚治虫が挑んだのは、テレビアニメであり、みなさんご存じの『鉄腕アトム』だったというわけです。
次回に続く。
〈了〉
神籬では、アニメ業界・歴史・作品・声優等の情報提供、およびアニメに関するコラムも 様々な切り口、テーマにて執筆が可能です。
また、アニメやサブカル系の文化振興やアニメ業界の問題解決、アニメを活用した地域振興・企業サービスなど、様々な案件に協力しております。
ご興味のある方は、問い合わせフォームより是非ご連絡下さい。
※1 手塚治虫は、1960年度長者番付の画家・漫画家の部で第1位(年収914.5万円)と発表されました。翌1961年度長者番付の画家の部では第2位となっています。
実はこれには裏話があり、長者番付のトップになりたかった手塚治虫は、通常であれば経理に節税を頼むところを、なるべく多く税金を支払うようにという真逆の指示を出していたといいます。
※2 横山隆一は毎日新聞の専属で『フクちゃん』などを連載するマンガ家でしたが、1956年にアニメーション制作会社「おとぎプロダクション」(おとぎプロ)を設立し、自主上映の短編アニメや劇場用アニメなどを制作。1961年には、日本初の連続テレビアニメシリーズ『インスタントヒストリー』(3分枠のショートアニメ番組)を制作しており、アニメの先駆者でした。
しかし、横山隆一個人の資産を財源として収益性を持たなかったため、短編アニメの『ふくすけ』と長編アニメの『ひょうたんすずめ』、オムニバス長編アニメ『おとぎの世界旅行』を劇場公開し、テレビアニメ『インスタントヒストリー』などを製作しただけで、発足から約十五年で解散してしまいます。
手塚治虫の功績について再考してみた件
① 最近の若者は手塚治虫に馴染みがない
② 赤本から貸本へ、マンガのスタイル変革
③ 手塚治虫は海賊王
④ トキワ荘の功績
⑤ アシスタント制度の確立
⑥ マンガ家への功罪
⑦ アニメを作るためにマンガ家に
⑧ アニメ制作の実現
⑨ 虫プロの創設
⑩ 『鉄腕アトム』という常軌を逸した挑戦
⑪ 非常識アニメ『鉄腕アトム』の実現
⑫ 商品としての『鉄腕アトム』の価格
⑬ 『鉄腕アトム』放送開始
⑭ アトムのビジネス的成功とテレビアニメブーム