手塚治虫の功績について再考してみた件 ⑥ マンガ家への功罪

神様は人に素晴らしい恩恵を与えると同時に、時には試練や罰を与えることがあります。
「マンガの神様」である手塚治虫も、良いことばかりではなく、あまりよろしくないと思われることもいくつかマンガ界に残しています。
その代表的なものが、週刊マンガ連載です。

1959年3月17日の同日に、小学館の「週刊少年サンデー」と講談社の「週刊少年マガジン」という2つの週刊少年マンガ雑誌が創刊しましたが、手塚治虫は一方の「週刊少年サンデー」で創刊号から『スリル博士』というマンガを連載しています。

「週刊少年サンデー」の創刊を任されていた小学館の豊田きいち編集長が会いに行った当時(1958年秋時点)の手塚治虫は、

鉄腕アトム』:光文社「少年」
ぼくの孫悟空』:秋田書店「漫画王」
双子の騎士』:講談社「なかよし」
スーパー太平記』少年画報社「少年画報」
ひょうたん駒子』平凡出版「平凡」
フィルムは生きている』学研「中一コース」「中二コース」
ジャングルタロ』集英社「おもしろブック」
ハリケーンZ』講談社「少年クラブ」
お山の三五郎』小学館「小学三年生」
ピンピン生ちゃん』講談社「たのしい三年生」

と10本の月刊誌での連載を抱えていました。

豊田編集長の証言によると、当時の小学館では、手塚治虫をこの「週刊少年サンデー」の看板作家にしようという計画がありました。
小学館は、これを実現させるべく、上記10作品の原稿料を計算してその合計金額(200~300万円)を専属料として出す代わりに、手塚治虫には他の連載を全てやめてもらい、「週刊少年サンデー」での連載1本だけにしてもらうという前代未聞の策を打ち出します。
この申し出を受けた手塚治虫は、1日考え、結局断ったそうですが、断ったのは専属契約のみで、連載はOKしたそうです。つまり、どういうことかと言うと、なんと上記10作品の連載を継続したまま、さらに週刊連載を引き受けたわけです。

手塚治虫が求めていたのは、金持ちになることでも、権威や権力を持つことでもありませんでした。
マンガを描き続け、常にトップでありたいというのが手塚治虫の望みであり、連載本数はマンガ家の人気をはかる目安でしたから、連載を減らすということは考えられなかったでしょう。
むしろ一つでも多く作品を描きたいと思っていたはずです。

そんな手塚治虫ですから、自身の過重労働に関しては全く無頓着でした。
時代性もあるので、現在の感覚とは異なりますが、それを考慮してもなお、手塚治虫の作業時間は常軌を逸しています。(1986年放送のNHK特集「手塚治虫 創作の秘密」では、睡眠時間は3日で3時間と語られていました)
「マンガの神様」である手塚治虫のこの仕事ぶりを目の当たりにしていたトキワ荘の住人たちをはじめ、多くのマンガ家たちが、これが当たり前の姿だと思い込んでしまった節があります。

全てに目を通したわけではありませんが。手塚治虫の著作本を読んでも、マンガ家の待遇や報酬の改善、自身の過重労働に関しての記述は見たことがありませんし、本人も問題視していなかったのではないかと想像されます。
この点に関しては、現在も全く改善されておらず、週間マンガ誌に連載を持つマンガ家の抱えるジレンマとなっています。

手塚治虫一人による功罪とは言えませんし、本人の意図するところでもなかったとは思いますが、それでも、多くのマンガ家及びマンガ家を志す者、あるいは編集者などマンガに携わる人々にまで、マンガ家とはかくあるべしとでもいう偏った認識を植え付けてしまった感は否めません。

ただし、これは表裏一体で、このマンガ家たちの身を削る努力が、現在にまで続く、マンガ作品の物量や質を支えているのであって、走り続けることを止めようと言う者は、当のマンガ家たちの中からもなかなか出て来ない現状もあります。
以前「週刊少年ジャンプ」に連載をしているマンガ家のタイムスケジュールが掲載されていたことがありましたが、これによると、『NARUTO』の岸本斉史は、週2日構想・ネーム作成(1日14時間)×週4日原稿作成(1日19時間)で1日休み(ネームが終わらなくて休みがなくなることもしばしばとのこと)で、休みの有無も考慮すると、1日平均16時間程と考えることができるでしょうか。
週1日の休みも取れるかどうか微妙な感じで、1日16時間の労働を、数年間、あるいは数十年間も継続するというのは、想像以上に過酷な労働環境です。
それも単なる労働ではありません。正解があるわけでもない中、売れなくなるのではという恐怖に耐えながら、毎週頭を捻って読者にウケるアイデアを絞り出し、手抜きの許されない全力での作業を強いられるですから、精神的なプレッシャーも相当なものでしょう。
原作作家と作画担当が別のケースもありますが、それは多くの場合、誰も代わってはくれない1人のマンガ家の孤独な戦いとなるはずです。

アニメをはじめ、映画、小説、演劇、音楽など、様々なメディアがありますが、これ程までに一人の才能を極限にまで絞り取るようなものは他にないでしょう。
現代日本人にとっては、毎週大量の新作マンガが読めるのが当たり前になってしまっているので、上記のような個人の途方もない労力によって大量のマンガが生産され、毎週消費されているという異常さに、その奇跡的とも言うべきありがたい状況に、なかなか気づき得ません。

ここまで、数回にわたり、マンガ界における手塚治虫の功績を見てきました。
手塚治虫は、漢字表記の「漫画」よりも、カタカナ表記の「マンガ」を好んで使っていたそうですが、これは手塚治虫が、それ以前の「漫画」と自分の作品を区別して考えていた証拠かと思われます。
手塚治虫の自伝『ぼくはマンガ家』のタイトルで意識的にカタカナ表記の「マンガ」を使っており、石ノ森章太郎なども、手塚治虫が「漫画」を「マンガ」に変えたと語っていたようです

マンガが老若男女はおろか、様々な趣味趣向を持つ人々に至るまで楽しめる多様性や重厚性を持つメディアになったのも、これ程までに高品質で大量に供給されるようになったのも、手塚治虫の存在が大きく関わっていることは間違いがなく、これらを総じて手塚の功績だとしても過言ではないと思われますが、いかがでしょう。


次回に続く。

〈了〉


神籬では、アニメ業界・歴史・作品・声優等の情報提供、およびアニメに関するコラムも 様々な切り口、テーマにて執筆が可能です。
また、アニメやサブカル系の文化振興やアニメ業界の問題解決、アニメを活用した地域振興・企業サービスなど、様々な案件に協力しております。
ご興味のある方は、問い合わせフォームより是非ご連絡下さい。


※1 石ノ森章太郎は、1989年に「萬画宣言」を提唱しています。
これは、「漫画」はあらゆる事象を表現でき、万人の嗜好に合い、万(無限大)の可能性を持つメディアであることから、すなわち「萬画」であるとの宣言でした。
これなども、石ノ森章太郎が手塚治虫同様に、それまでの「漫画」を超えた存在として「マンガ」(石ノ森章太郎の場合は「萬画」ですが)を捉えていた証拠であると思われます。


手塚治虫の功績について再考してみた件
① 最近の若者は手塚治虫に馴染みがない
② 赤本から貸本へ、マンガのスタイル変革
③ 手塚治虫は海賊王
④ トキワ荘の功績
⑤ アシスタント制度の確立
⑥ マンガ家への功罪
⑦ アニメを作るためにマンガ家に
⑧ アニメ制作の実現
⑨ 虫プロの創設
⑩ 『鉄腕アトム』という常軌を逸した挑戦
⑪ 非常識アニメ『鉄腕アトム』の実現
⑫ 商品としての『鉄腕アトム』の価格
⑬ 『鉄腕アトム』放送開始
⑭ アトムのビジネス的成功とテレビアニメブーム