手塚治虫の功績について再考してみた件 ⑧ アニメ制作の実現

前回取り上げた通り、手塚治虫は元々アニメ制作を志すも、資金がないことや当時の制作環境などから、まずはお金を貯めようとマンガ家になることを選択しました。

1946年に「少国民新聞」(現・毎日小学生新聞)に掲載された4コマ漫画『マアチャンの日記帳』でデビューして以来、『ジャングル大帝』、『鉄腕アトム』、『リボンの騎士』などの数々のヒット作を生み出し、マンガ家として大成していった手塚治虫でしたが、そのマンガがきっかけで初めて本格的にアニメに関わる機会が訪れます。
それが1960年製作の東映動画(現・東映アニメーション)作品『西遊記』でした。

これは、『白蛇伝』(1958年)、『少年猿飛佐助』(1959年)に次ぐ東映動画の劇場版長編アニメ第3作目の作品で、手塚治虫のマンガ『ぼくの孫悟空』を原案として製作されたものです。
東映動画部企画課※1の白川大作が、西洋の物語をテーマにしたものはディズニーが圧倒的に強かったので、東洋の物語をテーマにすべきだと、そして東洋の物語と言えば『西遊記』だということで案を出し、手塚治虫のマンガを原作とすることを提案したそうです。
白川大作が自宅を訪問して依頼をすると、元々アニメが作りたかった手塚治虫はこれを二つ返事でOKするわけです。
しかも手塚治虫は、原作者という立場を超え、ストーリーボード※2から参加することを希望し、東映動画の嘱託社員として積極的に制作に関わっていきます。

ところが、何本ものマンガ連載を抱える身でありながら、東映動画に入り浸って制作に励んだものだから、連載が滞った出版社側から抗議が殺到してしまいます。
手塚治虫はやむなく、手塚のアシスタントでアニメ好きだった月岡貞夫※3と、同じくアニメ好きでマンガの連載をそれ程多く抱えておらず、また筆が早いことでも定評のあった石ノ森章太郎を抜擢し、2人を自費で賄って助手として東映動画に派遣しました。
それまでも、東映動画に来ない日があったり、会議にも定刻通りに参加したためしがなく、いわゆる手塚治虫待ち状態が横行していたため、東映動画スタッフ内で不満や不信感が高まっていたようです。
マンガの場合、手塚治虫を中心にして周囲が動いてくれるのが当たり前だったわけですが、東映動画ではそうはいきません。手塚治虫は東映動画の課長に協調性がないと散々に叱られたそうです。

『西遊記』の制作は、記録によると1958年9月に開始されました。この時期、手塚治虫は月刊誌でのマンガ連載10本を抱えた上、「週刊少年サンデー」(1959年3月創刊)の創刊号から新作の連載を始め、自身でも初となる週刊マンガ連載に挑んでいた時期と重なっていましたから、手塚史上でもトップクラスに忙しかったはずで、そもそも両立は不可能だったのです。

手塚治虫の稼働以外に、絵に関しても、まだ職人気質が色濃く残る時代でしたから、マンガ界では神様と崇められる手塚と言えど、アニメの素人から口を出されることを良しとしない空気があったようです。
『西遊記』では、手塚治虫がキャラクター原案も務めましたが、東映動画のアニメーターたちからはデッサンがおかしいとか、前後で絵が繋がらないから描けないとNGを喰らってしまったそうです。

この『西遊記』に関しては、後のインタビューや著作などでも、手塚治虫は不満をぶちまけていますから、相当に悔しい思いをしたようです。
手塚治虫は、『西遊記』に続いて1962年公開の東映動画作品『アラビアンナイト・シンドバッドの冒険』にも参画し、『どくとるマンボウ』シリーズで知られる小説家・北杜夫と共同で脚本を担当しましたが、ここでも自身が考案した子鯨のキャラクターを、東映動画スタッフによって猫に替えられてしまったりと、大人数で創造的な仕事をする際には、相乗作用と同時に相殺作用も起こるものだと不満を口にしています。
こうした手痛い洗礼を受けた手塚治虫は、東映動画とは別に自らスタジオを作ってアニメ制作をすることにします。

手塚治虫はインタビューなどで、巨額の費用と大人数をかけ、高額な機材を用いて製作されるディズニーや東映動画などのアニメは児童文学的な作品ばかりであるため、自分であれば内容的にはそれらを超えるものを作ることができるという確信を持っていたと語っています。

会社勤めの経験がなく、常に一人で創作に打ち込んできた手塚治虫は、周囲の人間が自分を中心に回る体制に慣れ過ぎていた感があり、集団の中に入って歯車の一つとして機能しようというのは、にわかには困難であったことが窺えます。
東映動画での経験で、大人数による組織でのアニメ制作の弊害(あるいはそれに馴染まない自分)を痛感した手塚治虫は、自身が確立したマンガにおけるアシスタント分業制という手法を導入することで、ディズニーや東映動画とは異なる形で、自身の考えが全てに反映されるようなアニメ制作が可能なはずだと思い至るのです。


次回に続く。

〈了〉


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※1 当時の東映動画内には企画立案を行う部署がなく、東映本社の動画部が企画をしたものを、東映動画が作画や撮影などを行う体制となっていました。
ベテランのプロデューサーで東映動画の顧問に就任した渾大防五郎が、新人だった白川大作や飯島敬に声をかけ、企画を練る雑談の中で、手塚治虫の『ぼくの孫悟空』を提案したそうです。

※2 ストーリーボードというのは現在のアニメ制作で採用されている「絵コンテ」とは異なり、ストーリーのアイデアやキャラクター、演技内容、画面の流れや関係などを、スケッチを使って視覚的な形で表し、これを基に取捨選択や追加をしてストーリーを作り上げていく工程です。

※3 月岡貞夫はこの東映動画への派遣がきっかけで、そのまま東映動画へ入社し、『西遊記』では動画から原画までをも任され、その作画スピードの早さと上手さから「天才アニメーター」と呼ばれるようになり、東映動画のテレビアニメシリーズ第1作となった『狼少年ケン』では監督を任されました。
『西遊記』のキャラクターデザインでNGを喰らった手塚治虫の絵の修正も、かなりの部分を月岡貞夫が担っていたそうです。


手塚治虫の功績について再考してみた件
① 最近の若者は手塚治虫に馴染みがない
② 赤本から貸本へ、マンガのスタイル変革
③ 手塚治虫は海賊王
④ トキワ荘の功績
⑤ アシスタント制度の確立
⑥ マンガ家への功罪
⑦ アニメを作るためにマンガ家に
⑧ アニメ制作の実現
⑨ 虫プロの創設
⑩ 『鉄腕アトム』という常軌を逸した挑戦
⑪ 非常識アニメ『鉄腕アトム』の実現
⑫ 商品としての『鉄腕アトム』の価格
⑬ 『鉄腕アトム』放送開始
⑭ アトムのビジネス的成功とテレビアニメブーム