手塚治虫の功績について再考してみた件 ④ トキワ荘の功績
手塚治虫というと、トキワ荘を思い浮かべる人も多いでしょう。
学童社の少年誌「漫画少年」での『ジャングル大帝』の連載に伴い、1952年に上京して新宿で下宿していたものの、大家から編集者たちの出入りが激しいことに対する苦情を受けていた手塚治虫が、翌年、学童社の紹介で引っ越したのが豊島区南長崎(当時は椎名町)の新築アパートであるトキワ荘でした。
「漫画少年」では、マンガの投稿コーナーが設けられており、入選作品は雑誌に掲載され、後には手塚治虫が作品講評をするようになって、漫画界への登竜門的存在となっていきます。
学童社は、この「漫画少年」に投稿してきた有望な若きマンガ家たちを次々にこのトキワ荘へ住まわせました。
時期はそれぞれ異なりますが、まだ駆け出しのマンガ家だった寺田ヒロオ、藤子不二雄(藤本弘、安孫子素雄)、鈴木伸一、森安なおや、石森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお、山内ジョージといった面々がトキワ荘に居住していました。
学童社が、トキワ荘にマンガ家たちを集めたのには理由があります。
原稿の回収が一か所で済むということはもちろんながら、アシスタント要員や、休載時に急遽穴埋めを担当するマンガ家の確保が容易となる上、マンガ家同士が助け合うことで、休載回避の対策にもなっており、様々なメリットがありました。
マンガ家たちにとっては、ライバル同士が刺激し合う精神的なことだけではなく、表現方法、テクニック、アイデアなど、様々な情報が共有されるという実質的なメリットがありました。
インターネットもなく、マンガの描き方を教える学校もない時代ですから、一つ所に集まって共同生活を送る環境下で共有される情報量は計り知れなく、技術向上の場として機能していたことが想像されます。
意外に思われる方もいるかもしれませんが、手塚治虫がトキワ荘に暮らしていたのは1953年初頭~1954年10月の2年弱に過ぎません。
トキワ荘以降、手塚治虫は、雑司ヶ谷、代々木初台、富士見台、下井草、東久留米へと移り住みますが、トキワ荘での生活期間は、最初の新宿に次いで2番目に短いものでした。
トキワ荘におけるマンガ家たちの共同生活自体も、最後まで残留していた山内ジョージが退去したのが1962年3月なので、期間的には9年程のことになります。
手塚治虫自身は師匠肌や兄貴肌のようなものはなく、人にモノを教えるタイプでもなかったようです(トキワ荘においては、寺田ヒロオがその役を担っていました)。
ただし、当時のマンガ家たちの間では、手塚治虫という存在は非常に大きなものであって、手塚治虫が住んでいる、あるいは住んでいた、ということがステータスとなって求心力を持っていたのは確かでしょう。
実際に、手塚治虫に会いに来た若手マンガ家やマンガ家志望の若者も多くいましたし、トキワ荘のマンガ家たちと交流のあった永田竹丸、長谷邦夫、つのだじろう、横山孝雄、園山俊二、丸山昭らは足しげくトキワ荘に通っていたそうです。
当然ながらマンガ家だけではなく、編集者も頻繁に出入りしており、そうした多くの若手マンガ家やマンガ関係者たちが一つの場所で顔を合わせ交流する場となっていたわけです。
トキワ荘がそうした情報交流の場、若手マンガ家たちの育成の場となっていたのは、手塚治虫が意図したものではありませんが、結果的に、手塚治虫の存在が、そうした場所を生み出す原動力になっていたという見方もできるのではないでしょうか。
また、手塚治虫は、長く同じアシスタントを使わかなかったことでも知られています。
通常であれば、有能なアシスタントは手元に確保しておきたいと考えそうなものですが、手塚治虫の場合は、新人アシスタントに対し、最初に「早く辞めてください」と告げていたと言います。
これは、早く成長してアシスタントを卒業し、マンガ家として独り立ちして欲しいというメッセージだったそうで、実際に雇用期間が3年間のみという縛りがあったそうです。
手塚治虫自身は生涯締切に追われ、多忙を極めていたため、新人育成に多くの時間や労力を割くようなことはありませんでしたが、一人前のマンガ家として育って欲しいという気持ちは大きかったようで、時には小遣いと休みを与えて映画を観に行かせ、感想文を書かせたりもしていたとのことです。
マンガの歴史をトキワ荘だけで語る傾向が散見されますが、実際にはトキワ荘メンバーだけがマンガ業界を牽引していたわけではなく、劇画や少女マンガなどの複数のグループが存在していました※1。
そこでも同じような情報共有や技術向上の機能がありましたが、メンバーのその後の活躍も含めてトキワ荘は別格です。
手塚治虫のアシスタント経験者からも、『コブラ』の寺沢武一をはじめ、『ダメおやじ』の古谷三敏、『The・かぼちゃワイン』の三浦みつる、わたべ淳、高見まこ、堀田あきお、石坂啓、広井てつお、伴俊男、喜国雅彦など数多くのマンガ家を輩出しています。
そういう意味で、手塚治虫は現在にまで続くマンガ家の系譜の起点の一角を担っていたと言え※2、また、プロ人口が5000人、アマチュア人口が20~30万人とも言われる程までマンガ家が増え、現在もなおもその数が増え続けている状況も、手塚治虫の功績なくしては語れないはずで、その功績は計り知れないものがあります。
次回に続く。
〈了〉
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※1 辰巳ヨシヒロやさいとう・たかをたち8名による劇画制作集団「劇画工房」(1959年1月~1960年1月)、竹宮惠子と萩尾望都が同居した練馬区南大泉の借家に、後の少女漫画界を牽引した女性漫画家たちが集まり交流の場となった「大泉サロン」(1970~1972年)と言ったものが存在していました。
※2 手塚治虫(1928生)の系譜(あるいは手塚治虫作品を見てマンガ家を志望した者)とは異なる同時代の作家としては、『のらくろ』の田河水泡の内弟子であった『サザエさん』の長谷川町子(1920年生)、紙芝居作家から漫画家になった『ゲゲゲの鬼太郎』の水木しげる(1922年生)、元図画教師の冨永一郎(1925年生)、元大丸宣伝部のサトウサンペイ(1929年生)などがいます。
手塚治虫の功績について再考してみた件
① 最近の若者は手塚治虫に馴染みがない
② 赤本から貸本へ、マンガのスタイル変革
③ 手塚治虫は海賊王
④ トキワ荘の功績
⑤ アシスタント制度の確立
⑥ マンガ家への功罪
⑦ アニメを作るためにマンガ家に
⑧ アニメ制作の実現
⑨ 虫プロの創設
⑩ 『鉄腕アトム』という常軌を逸した挑戦
⑪ 非常識アニメ『鉄腕アトム』の実現
⑫ 商品としての『鉄腕アトム』の価格
⑬ 『鉄腕アトム』放送開始
⑭ アトムのビジネス的成功とテレビアニメブーム