カプセルトイのことについてもう少し語ってみた件 ③「ガチャガチャ」ヒットの歴史・前編
前回は日本におけるカプセルトイの誕生を紹介しましたが、今回はカプセルトイが普及しはじめた日本での動向を追ってみたいと思います。
前回のコラムで触れたとおり、ペニイ商会によって1965年に日本でカプセルトイが展開された当初は、香港製の商品が10円という価格で販売されていました。
しかし1970年代に入ると、香港製品の品質に飽き足らず、メーカーと消費者である子供たちも含め、もっと良質なものを求めて国産化にシフトしていきます。
1973年のオイルショックを機にカプセルトイの価格が20円に値上げしたことで、国産化が本格的に進み、1970年代半ばから、ギミックがある複雑な構造のものや、精密なものなどが増えていきます。
スーパーカー&怪獣消しゴムの流行
国産化のおかげで、香港では作れないような品質の高い商品開発が可能となると、ゴム人形にミニチュアぬいぐるみ、ミニチュア本、ピンバッジ、ミニライター、車輪が動くミニカー、ミニ銃など、アイデアを凝らしたものや精工な作りのものが次々に登場し、まるで進化爆発のように膨大な数の商品が生み出されました。
そんな中、カプセルトイ史上初のヒットシリーズ商品が生まれます。
それが、1970年代に盛り上がったスーパーカーブームや怪獣ブームに乗っかる形で登場した「スーパーカー消しゴム」と「怪獣消しゴム」でした。
特に「スーパーカー消しゴム」は「カー消し」とも呼ばれ、ノック式ボールペンのボタンが戻る勢いを利用して飛ばし合い、飛距離を競ったり、机の上での落とし合いや自前のコースでレースごっこをする「スーパーカー飛ばし」「消しゴム落とし」なる遊びが男の子の間で大流行しました。
ちなみにこれらの商品は。「消しゴム」と呼ばれてはいるものの、文具としての機能はなく、ただ単に文具の消しゴムと同じ塩化ビニール製であることからそう呼ばれているのに過ぎません※1。
消しゴムを忘れた時に、「スーパーカー消しゴム」で文字を消そうとしたら、全然消えずにノートに汚れが広がっただけだったという経験をお持ちの方もいるのではないでしょうか。
1977年には、先のコラムでも触れたバンダイのカプセルトイ業界への参入と、コスモスの誕生という、カプセルトイ史上における大きな出来事がありました。
コスモスという業界の問題児
コスモス※1は、埼玉県羽生市で生まれた玩具メーカーです。
徹底的なコストカットで、金型制作から成型、販売機の製造、販売機に入れるポップの印刷、営業車の整備まで、カプセルトイ事業の全てを一貫して自社で行うという独自戦略で成り上がった会社でした。
画期的だったのは、「あたり玉」の導入です。
駄菓子屋などの店頭に置かれたコスモスのカプセルトイ自販機には、通常の「スーパーカー消しゴム」のような商品やその他の粗悪品がハズレ扱いで入れられており、その中に少数の「あたり玉」と呼ばれるカプセルサイズの玉が入っています。
運良く出てきた「あたり玉」は、そのお店でカプセルには入らないようなポスターなどの商品と交換してくれるシステムになっていました。
現在では射幸心を煽るとして取り締まりの対象となりそうですが、当時はまだこの辺りの法的なルールが曖昧な時代だったから成立していた商売でした。
コスモスは、「宇宙戦士ダンガム」「チョロカー」など版権ギリギリ(あるいはアウト)な数々のコピー商品でも知られており、今ではあり得ないカプセルトイ史上の徒花、あるいは問題児的存在です。
バンダイの快進撃
バンダイの参入は業界を震撼させた大ニュースで、70~80年代のロボットアニメブームを背景に、強力なコンテンツをひっさげて、あっという間にヒットメーカーに踊り出ました※3。
さらにバンダイは、カプセルトイ史上空前の大ヒット商品となった「キン肉マン消しゴム」を生み出します。
いわゆる「キン消し」というもので、1983年に発売を開始するとまたたく間に大人気となり、子供たちのコレクター魂に火をつけました。
1983年というと、「黄金のマスク編」~「夢の超人タック編」が集英社の「週刊少年ジャンプ」で連載されていた人気最高潮の頃です。
さらに4月からはテレビアニメの放送が始まったばかりとあって、『キン肉マン』がノリに乗っている時期でした。
1983~1987年に発売されたレギュラー版の累計販売数は約1億8000万個にも及び、この「キン消し」ブームが牽引する形で、カプセルトイ業界全体が盛り上がりを見せていました。
ちなみに、「キン消し」はカプセルに3体入って100円という値段で販売されていました。
この頃のカプセルトイの値段は、20円から100円への移行期でしたが、この「キン消し」が決定打となって100円ガチャが主流となります。
そして100円ガチャに市場を奪われた20円ガチャは、徐々に減少していきました。
バンダイはこの後も1985年に発売を開始した「SDガンダム」シリーズをヒットさせるなど、カプセルトイ業界を席巻していきます。
1994年には、バンダイが販売を開始した高品質シリーズ「ガシャポンHG」します。
この「ガシャポンHG」シリーズが、翌1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』のブームと相まって一気に開花し、カプセルトイが高品質・高価格路線へ向かうきっかけを作りました。
この後、バンダイのみならず、玩具業界の大手トミーの子会社であるユージン(現・タカラトミーアーツ)も参入し、ますますカプセルトイ業界が盛り上がっていくことになります。
次回に続く。
〈了〉
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※1 カプセルトイの「消しゴム」は、文具の消しゴムと同じ塩化ビニール樹脂製ではあるために同じ名称で呼ばれていますが、厳密には材質が異なります。
塩化ビニール樹脂そのものは硬い素材のため、成型をする際には柔軟性を与える可塑剤を混ぜるのですが、文具の消しゴムの方は、この可塑剤を多く入れて弾力性を持たせてあります。
可塑剤には黒鉛の吸着性を高める役割もあるため、鉛筆で書かれた文字をゴムでこすりつけると、効率よく黒鉛を吸着してからめとり、消しカス状に薄利するというわけです。
一方、カプセルトイの「消しゴム」は、ある程度の硬さがないと細部を表現できないため、この可塑剤を減量しており、その結果、字消しとしての性能が失われているのです。
実際に消してみるとわかりますが、黒鉛がなかなか吸着せず、消しゴムの用を成さないものだとわかります。
メーカー側も当初は「おもちゃ消しゴム」などと謳って販売していましたが、「キン肉マン消しゴム」などでは、公然とは「消しゴム」だとは言わず濁している様子が伺えます(「キンケシ」も「消し」の文字を使わずに表現していました)。
メーカー側が意図したことかはわかりませんが、子供たちにとっては、これを文具の消しゴムだという名目で、公然と学校に持ち込むことができる玩具となっていました(持込禁止になった学校も多かったようですが)。
※2 コスモスは1977年に埼玉県羽生市で設立すると、全国に何十万台ものカプセル自販機を設置。
自社のみで製造工程の全てを担うことができる体勢によるフットワークの良さから、流行に乗じた商品をいち早く開発して市場に投入できるスピード感や、「あたり玉」を使った販売戦略などで子どもたちの心を掴みました。
1982年度には年商が180億円に達するまでに急成長するも、業績悪化により、1988年2月に倒産。
コスモスと言うと、カプセルトイではなく、BOXタイプの商品を販売する真っ赤な自販機の印象の方が大きいという方もいるかもしれません。
これなどは現在の1000円ガチャの前身と言える存在です。
数々のコピー商品については、たとえ昭和時代であってもやはり許されるはずもなく、「ロッチ騒動」などのように度々裁判沙汰になっていました。
※3 バンダイが初めて市場投入したのは、『UFOロボ グレンダイザー』と『惑星ロボ ダンガードA』のミニ超合金でした。
※4 ユージンは、玩具会社トミーから生まれた会社です。
1985年のプラザ合意による急激な円高で赤字に転落し、経営危機に陥ったトミーが、人員整理のため、組織の再編成を行った際に作られた子会社がユージン(初代)でした。
1986年に東日本橋で設立し、トミー本社では扱わない小物玩具や玩具菓子、カプセルトイをメイン商材とすることでスタートします。
ユージンは、当りが出るともう一回できるルーレット付でメロディも流れる電動の新しいカプセルトイ自販機「ビッグマシーン」を発売しましたが、電源が必要だったために駄菓子屋などに敬遠されて苦戦。
結局事業は軌道に乗らず、東日本橋の会社をたたみ、トミー本社のある葛飾区立石で新生ユージン(二代目)を設立します。
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