カプセルトイのことについてもう少し語ってみた件 ②「ガチャガチャ」誕生の歴史・後編

前回はアメリカでのカプセルトイ自販機の誕生と、それに日本が大きくかかわっていたことを解説しましたが、今回は日本でのはじまりについて取り上げます。

日本での「ガチャガチャ」発祥
日本における自動販売機の登場は、1953年に海外から輸入されたのがはじまりだと言われています。
1957年にはコカ・コーラ社が日本で自動販売機とルートセールスによる販売戦略を展開し、1962年には日本でコカ・コーラの国産自販機の製造がはじまり、この年だけで880台の自動販売機が全国に設置されたとのこと。

1960年代、アメリカでは日本製のカプセルトイを売る自動販売機が普及していましたが、当時の日本には、まだカプセルトイ自販機は存在しませんでした。

日本におけるカプセルトイ自販機の歴史は、日本から玩具を輸入してカプセルトイ事業を商っていた輸入商社ペニイキング※1L.O.ハードマン社長※2が、仕入先だったパンアメリカン貿易商会(台東区入谷)の重田哲夫社長に、カプセルトイ自販機を紹介したことに始まります。

実はハードマン氏は、アメリカにおけるカプセルトイの普及について、重田社長に全く伝えていませんでした。
輸入元に儲かっていることが知られれば値を吊り上げられるかもしれませんから、交渉手段として秘匿していたものかと思われます。
そのため、重田社長は自身が販売した玩具が、アメリカでどのように販売されているのかを知らなかったとのこと。

1962年にカプセルトイ事業で最高益を上げたハードマン氏は、重田社長にカプセルトイのことを打ち明け、日本でカプセルトイ事業をはじめるよう勧めたのです。
日本は高度成長期でGDPも上昇してきていたことから、商売が成り立つとの見込みがつき、自社の事業拡大を狙っていたものか。あるいは、長年にわたり、自社に貢献してくれた重田社長への恩返しのつもりだったのか、はたまたその両方だったのか、今となってはハードマン氏の真意はわかりません。

これを受け、翌1963年にロケテストが行われましたが、ある程度の手応えを得たのでしょう。
重田社長は実弟の龍三氏とともに1965年2月17日に株式会社ペニイ商会を東京都台東区蔵前3丁目で起業し、カプセルトイ事業(製造・販売)を開始。L.O.ハードマン社長の全面的な支援のもとでカプセルトイ事業を推進していくことになったのです。
ちなみに、ペニイ商会は、現在は株式会社ペニイとして、タカラトミーアーツの子会社となっており、カプセルトイの販売・企画および筐体のオペレーションなどを担っています。
また、このペニイ商会の創立日である2月17日は、日本におけるガチャガチャの発祥となったことを記念して「ガチャガチャの日」に認定されています(2019年認定)。

ペニイ商会は、アメリカ製カプセルトイ自販機(オーク社製BIG BOY)を輸入し、これをおもちゃ屋や駄菓子屋、文房具屋の店先などに置いてもらうことで事業を展開。
カプセルの中身は、香港で買い付けてきた、乗り物やロボットの形をしたゴムやプラスチック製の玩具といったもので、当時の販売価格は10円でした。

香港製を使用したのはコストのためです。アメリカへ輸出していたカプセルトイと同じものでは、日本で販売するには割高だったため、10円で販売するためには、安価な香港製のものである必要があったのです。
しかし、そこは商売というもので、10円とは言え、10円以上の価値があるように見せなくてはいけません。
ペニイ商会のカプセルトイ自販機の看板には「10円で世界の玩具を集めよう!」と記されており、逆転の発想とでも言うのか、いわゆる「舶来物」の珍しい商品であることをウリにしていたことがうかがえます。
翌1966年1月に、このペニイ商会のカプセルトイ自販機が、朝日新聞社の「アサヒグラフ」※3で取り上げられると、全国から問い合わせが殺到し、一気に事業が拡大していくことになります。

ちなみに、ペニイではカプセルトイを「カプセル玩具」「ペニイ自動販売機」の名称で販売していましたが、ハンドルを回す音から自然発生的に「ガチャガチャ」の名称が生まれ、この呼び方が子供たちの間で浸透していったというのは、先のコラムでお話した通り。

時を同じくして、別の場所でもカプセルトイ事業に挑戦する動きがありました。
日本に買い付けに訪れていた玩具バイヤーのスタンレー・シャーレット氏に突然声をかけられた貿易会社の広瀬久照氏が、カプセルトイ事業を日本に広めないかと誘われ、ともに日商貿易(後のバリューマーチャンダイズ※3)という会社を設立。浅草にカプセルトイ自販機の1号機を設置したのが1965年だといいます。

重田社長のパンアメリカン貿易商会に勤めていた今野明久氏が独立して1961年に創業した今野産業も、カプセルトイ事業に参入します。
他の会社が輸入玩具を扱っていたのに対し、今野産業では、国産オリジナル商品の企画開発に注力しました。その意味では、日本初のカプセルトイメーカーであるとも言える存在でした。

関西でも、大阪の林商会がカプセルトイ事業に参入。
林商会は、高価で故障が多かったアメリカ産自販機から脱却すべく、カプセルトイ自販機の国産化に挑み、これに成功しました。ペニイ商会設立と同じ1965年のことです。

この他にも数々の会社がカプセルトイ事業に参入するようになり、日本におけるカプセルトイ事業は、急速に拡大していくことになったわけです。

次回に続く。

〈了〉


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※1 「ペニイ(penny)」とは、アメリカの1セント硬貨の愛称です(イギリスの通貨単位が由来)。
「ペニイキング」というのは、当時のカプセルトイ自販機の価格が1セントであったことからの社名で、日本語的に意訳すると「ガチャ王」といった感じでしょうか。

※2 レスター・オーエンス・ハードマン(1908~1979年)Leicester Owens HARDMAN
ペンシルベニア州ピッツバーグのペニーキング(The PENNY KING Company)で、1949年に自動販売機市場向けにチャームの製造を開始。
プラスチックに銅、銀、金メッキで、スポーツの各種ボール、スポーツ選手、ボクシンググローブ、動物、蹄鉄、指輪、ドクロなど様々な種類のチャームを製造し、1950年代にはチャームの販売代理店としてアメリカ全土へと事業を拡大。
1959年には、KFS(キング・フィーチャーズ・シンジケート)からフラッシュ・ゴードンやポパイなどのキャラクターライセンスを取得して、ボタン、指輪、ロケットなどの商品を製造・販売しました。

※3 掲載されたのは、「アサヒグラフ」1966年1月28日号で、「飛びだす10円オモチャ」と題して巷で流行り始めた10円オモチャの自動販売機(カプセルトイ)を取り上げています。
記事によると、ペニイ商会が輸入した販売機(BIG-BOY)が、東京、横浜、川崎、千葉、大阪のオモチャ屋、文房具屋の店先に1000台ほど置かれ、1日に1万個も売れているとのこと。
さらに、重田社長をはじめ7人の社員が、商品補充や10円玉の回収のために、パブリカ バンに乗って東京中をかけまわっていると書かれています。

※4 バリューマーチャンダイズと言えば、「モヤモヤさまぁ~ず2」(テレビ東京)でもお馴染みです。
2010年9月5日放送の「モヤモヤさまぁ~ず2」では、さまぁ~ずたちが、墨田区にあったバリューマーチャンダイズを訪れており、広瀬社長も登場していました。


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