昭和・平成アニメのトンデモ事件簿④ 番組開始してもまだ制作中だった24時間テレビの手塚アニメ

アニメの解説書

1973年の虫プロダクション倒産で自宅を売却する程の窮地に陥り、アニメはもうやらないと宣言してマンガに専念、劇画ブームなどで低迷していた人気を、『ブラック・ジャック』などのヒット作で見事盛り返した手塚治虫が、「世界初の2時間テレビアニメ」という謳い文句に飛びつき、再びアニメに作ることになりました。

企画としては、日本テレビで放送の第1回『24時間テレビ 愛は地球を救う1』内で、2日目となる1978年8月27日の日曜10:00~12:00に放送される長編スペシャルアニメというもので、「世界初」という言葉が大好きな手塚治虫が、宣言を撤回し、連載8本を抱える多忙な状況を顧みず、ノリノリで制作を引き受けてしまい、周囲の人たちの誰もこれを止めることができませんでした。
虫プロはもうないので、手塚治虫が虫プロとは別にマンガ制作の会社として設立していた手塚プロダクション※が制作を担当することになります。

作品タイトルは『100万年地球の旅 バンダーブック』。
姿を変える宇宙人や、妖怪や怪獣との戦い、宇宙の冒険、タイムスリップなどの他、社会問題風刺など手塚治虫らしいアイデアやテーマが満載で、当時人気だったブラック・ジャックを、そのままの姿で宇宙ギャングの頭役で登場させたり、そこかしこにお馴染みの手塚キャラが登場するなど、手塚ファンたちにも嬉しい演出がされていたりと、これを劇場ではなくテレビで見られるのは、何とも贅沢というか、もったいないとも思える傑作でした。

このスペシャルアニメ放送は、『24時間テレビ』内でも最高となる28%という高視聴率を記録したことで、以降、1990年までの『24時間テレビ』で恒例となり、当時のアニメファンにとっては、『24時間テレビ』と言えば手塚アニメというのが風物詩のようになっていました。

ところが、そんな好評の裏側では、信じられないような恐ろしい地獄絵図が展開されていたのです。

『100万年地球の旅 バンダーブック』では、総指揮・原案・演出・構成を手塚治虫が担当しているので、基本的に脚本や絵コンテを手塚治虫が一人で作成し、それを元に作画スタッフにそれぞれのパートの絵を作成してもらい、上がってきた作画を手塚治虫がチェックして、問題があれば修正指示を出すと言う流れになります。

しかし、この絵コンテがなかなか仕上がらず、わずかに上がって来る部分的な絵コンテを元に作画を上げても、今度はその作画チェックの返事が返ってこないという有様で、作画スタッフはほとんど作業を進められず、外注の制作スタジオからも不満が噴出していたそうです。
そんな状況が数ヶ月も続き、放映日まで2か月という段階で、その危機的な状況を一番把握していた制作担当デスクが失踪してしまうのです。
そこで手塚治虫は、絵コンテが仕上がりつつあるので、原画も自分が担当すると言い出し、担当者不在の作画作業を引き取ってしまいます。ところが、手塚治虫が引き受けた原画も、もうすぐと言っていた絵コンテも、両方仕上がっては来ず、状況はますます悪化していきます。

当然のことながら、手塚治虫は連載8本を抱える身、アニメだけを作っているわけではありませんから、マンガ原稿の合間に絵コンテや原画を描くという過酷というか無茶苦茶な状況で、通常ならある程度まとまった量を外注スタジオに持って行ったりするものですが、上がった先から数枚、時には1枚であっても、朝夜関係なくスタジオに持ち込んで作画依頼をかけていたそうで、手塚プロのスタッフは方々のスタジオを駆け回っていたそうです。

そんな状況でありながら、なんと手塚治虫担当の原画が出揃い始め、一部は試写チェックまで漕ぎ着けるまでになったというから尋常ではありません。
スタッフも好転し始めた現場に安心したかと言うと、全くそんなことはなく、放映まで1か月を切っている状況で、試写を見た手塚治虫が、ほぼ全てのカットにリテイクを出しまくったというのですから、スタッフの阿鼻叫喚ぶりが目に浮かぶようです。

リテイクに反対するスタッフもいたようですが、スタッフの誰もが、手塚治虫が事務所の床にダンボールを敷いて仮眠を取りながら、毎日誰よりも一番多く仕事をしていることを知っていたので、そんな手塚治虫が出すリテイクに従わないわけにはいなかったといいます。
最後の3日間はスタッフが完徹で作業に取り組み、事務所の廊下には、作業を終えてごろ寝するスタッフで埋まっていたそうです。

『24時間テレビ』の恒例スペシャルアニメは、
① 1978年『100万年地球の旅 バンダーブック』
② 1979年『海底超特急マリンエクスプレス』
③ 1980年『フウムーン』
④ 1981年『ブレーメン4 地獄の中の天使たち』
⑤ 1982年『アンドロメダ・ストーリーズ』
⑥ 1983年『タイムスリップ10000年プライム・ローズ』
⑦ 1984年『大自然の魔獣バギ』
⑧ 1985年『悪魔島のプリンス三つ目がとおる』
⑨ 1986年『銀河探査2100年 ボーダープラネット』
⑫ 1989年『手塚治虫物語 ぼくは孫悟空』
⑬ 1990年『それいけ!アンパンマン みなみの海をすくえ!』
と初回から第13回まで続き、第5回の『アンドロメダ・ストーリーズ』(原作:光瀬龍・竹宮惠子、制作:東映動画)と、第8回の『悪魔島のプリンス三つ目がとおる』(制作:東映動画)を除き、手塚治虫と手塚プロダクションによって制作され、手塚治虫逝去後に放送された第12回の『手塚治虫物語 ぼくは孫悟空』をもって手塚プロは撤退。
第13回では、『それいけ!アンパンマン』のスペシャル版が制作・放送されましたが、これを最後に、『24時間テレビ』のスペシャルアニメの放送が打ち切られました。

前置きが長くなりましたが、今回の本題である事故物件となったアニメは、1986年に放送された『24時間テレビ』第9回の『銀河探査2100年 ボーダープラネット』です。

宇宙飛行士の親友を死に至らしめた未知の宇宙ウイルスに感染した、かつての想い人で親友の妻となっていた女性を助けるため、冷凍睡眠に入った想い人を地球に残し、主人公が未知のウイルスの治療法を探して銀河中を探索するという筋書きで、あまりにも無謀な探索で次第に年齢を重ねていく主人公と、冷凍睡眠されて若いままの想い人を描いた切ないストーリーとなっています。

手塚治虫の制作スタイルが変わらないので、年を経てもアニメ制作の現場は似たり寄ったりで、ほぼ『バンダーブック』と同じ状況が毎年繰り返されていたそうです。
さらに本作品では、過去の回想から、ウイルスの治療法探索の旅に出る物語の発端、探索先の惑星ごとの3つのエピソード、エピローグという構成で、そのそれぞれのパートを別々の制作スタッフが手掛けており、一つの作品内で作風が異なるエピソードが展開するオムニバス形式の作品となっています。

そのこともあって、現場の制作状況はさらに困難を極めていたようで、『24時間テレビ』のアニメの中でもその制作スケジュールの逼迫具合は特に酷く、何とフィルムが完成したのが、放送の5分前だったというから驚きです。

オンエア当日までセルの色塗りをしていたという話までありますが、セルが完成した後、撮影・現像・編集の作業があるので、あながち都市伝説だとも言えません。
当時、手塚プロダクションで進行を担当していた清水義裕氏(現・手塚プロ取締役・著作権事務局局長)によると、放映中なのに後半のフィルムが納入されていなかったとのことです。
当時はビデオではなくフィルムでしたから、2時間枠の放送ではロールと呼ばれるフィルムを巻いたものが何本も必要で、10時からのアニメ放送が始まって機械にかけられている1本目のロールが回り出した時に、まだ最終ロールを繋ぐ作業をしていたということですから、前日に『24時間テレビ』がスタートした時には、少なくとも、まだ撮影や編集など何かしら作業中だったということになります。

通常のアニメ番組の場合、オンエア前にはテレビ局やスポンサー、広告代理店による試写が行われ、内容に問題がないことを確認してから放送されるものですが、試写どころか、放送中にフォルムを繋いでいたというのは前代未聞で、一歩間違えれば放送事故になる可能性が大いにあったはずです。
もしそうなっていたら、その後10年以上にわたる『24時間テレビ』恒例のスペシャルアニメの歴史もなかったわけで、この一連のアニメ作品は、手塚治虫とスタッフたちの血と汗と涙が作り出した奇跡の結晶とも言えます。

※手塚プロダクションは元々マンガ制作のために作られた会社でしたが、虫プロが手塚作品以外のアニメ化も手掛けるようになり、手塚治虫が虫プロ社長を退任した頃には、手塚プロ内部にもアニメ制作部門が作られ、『ふしぎなメルモ』や短編作品などを手掛けていました。

ところが虫プロ倒産後は、手塚治虫自身のアニメはもうやらない宣言もあって、アニメスタッフの多くは退社し、『バンダーブック』の制作に取り組むまでは、本来のマンガ専門の制作会社に立ち戻っていました。


※「放映中に手塚治虫が絵コンテを切っていた」という話もありますが、これは、『海底超特急マリンエクスプレス』での話で、構想していた長大なストーリーを放送時間の都合でカットせざるを得なかったため、放送後に作り直そうと、テレビ局に納入して放映中にも関わらず、絵コンテを作っていたというのが真相のようです。

もし本当に放映中に、放送するための絵コンテを作っていたとしたら、そこから原画→動画→トレース→線入れ→色塗り→撮影→現像→編集→フィルム接ぎという作業があり、当時の手塚プロダクションではそれぞれの作業を別個のスタジオに依頼していたので、作画をスタジオに持ち込む際の移動時間も加わりますから、たとえ1カットだけでも2時間以上はかかるはずなので、普通に考えたらあり得ないことがわかります。