アニメ制作のビジネスモデルの歴史 その① アニメ映画からテレビアニメへ
漫画映画時代
日本で初めてアニメーションが制作されたのは、1917年(大正6年)だと言われていますが、現在のアニメの歴史は、映画に端を発し、1956年に発足された東映動画および1958年に制作された日本初のカラー長編アニメ映画『白蛇伝』に始まります。
1953年には日本でもテレビ放送が始まっており、アニメも放送されていましたが、数分程度のごく短い作品に過ぎず、あくまでも当時のアニメの主流は映画にありました。
この頃のビジネスモデルは、実写映画と変わらず劇場興行ビジネスであり、つまり観客の入場料が収益となるものでした。
テレビアニメ黎明期
テレビアニメが現在の毎週30分放送のスタイルになったのは、1961年に手塚治虫が発足させた虫プロダクションが制作した1963年放送の『鉄腕アトム』が最初で、当時、長い期間をかけて制作される漫画映画や、3~10分の紙芝居的なテレビアニメが主流の中にあって、毎週30分のテレビアニメを放送することは、国内はおろか世界初の試みで、これが今日のアニメ製作の礎になりました。
虫プロのビジネスモデルは、広告代理店を通してスポンサーを募り制作費を出資してもらい、著作権を自社で所有する形で作品を制作。低価格受注のためにスポンサーから受け取る制作費では賄いきれない赤字分を、ロイヤリティーや海外輸出での収益で補填するというもので、『鉄腕アトム』の人気もあってこのビジネスモデルは一様の成功を収めました。
手塚治虫が日本のアニメ界の将来を考えて30分アニメを立ち上げたというのは、手塚治虫を神格化した幻想に過ぎません。普通に手塚治虫の立場で考えれば、どんな低価格でも成立(ロイヤリティーや海外輸出での収益で補填)できる確信があり、かつ低価格で引き受ければ、他社が参入できず一人勝ちが狙えるとの勝算があったればこそのビジネス戦略だったのです。
最悪の場合は私財を投じてでも、との覚悟だったようですが、『鉄腕アトム』は大ヒットとなり、実際には私財を投じなくとも全く問題ない程の高収益を上げていたようです。
ちなみに、現在のアニメーターの低賃金問題は、アニメ制作費を過剰に低く請け負ったことで低価格路線を作ってしまった手塚治虫に責任があるとする記事をよく見かけますが、それは的外れな指摘です。
事実、虫プロは長時間労働を強いるなど労働環境こそ劣悪でしたが(昭和という時代では、長時間労働自体はアニメ業界に限った話ではありませんが)、こと賃金面に関しては他社よりも待遇が良く、高賃金をウリに東映動画から優秀な人材を引き抜いていたくらいで、現在横行しているような、低賃金でのやる気搾取をしたことはありませんでした。
直接の原因は、虫プロの『鉄腕アトム』の大成功でテレビアニメのうま味に気づいた他社が次々に参入し、後に価格競争を繰り広げたことが原因であり、発端を作ったとは言え、その一点のみで手塚治虫に全責任を負わせるのは、あまりにも偏り過ぎた見識かと思われます。
『鉄腕アトム』以降も各社で制作されたテレビアニメは相次いでヒットを飛ばし、手塚治虫の言によれば、1話あたり600~700万円※くらいはスポンサーが出すようになったとのことですので、逆に『鉄腕アトム』のおかげでスポンサーの出資額が跳ね上がったとさえ言えます。
※当時のスタッフの証言から『鉄腕アトム』の制作費は1話300万円程度で、開始当初はさらに安く155万円だったとの証言もあります。
連載コラム「アニメの未来を考える」アニメ制作のビジネスモデルの歴史
その① アニメ映画からテレビアニメへ
その② 一社提供アニメ
その③ 製作委員会の登場
その④ 製作委員会の仕組み
その⑤ 製作委員会の変容
その⑥ 外資企業・配信サービスの台頭