練馬区にマンガ家が多く住む理由についての件① 手塚治虫はなぜ練馬に家を建てたのか

練馬区は、今は亡き手塚治虫が住んでいた街として知られている、と言いたいところですが、実は思った程にはこのことが知られてはいないようです。
生前の手塚治虫を知る世代ならいざ知らず、世代的に若い人程手塚治虫に関する情報が薄れているため、手塚治虫関連で何もアピールをしていない練馬区との関連性が認知されなくなってきているのは当然とも言えそうです。
むしろトキワ荘が有名なので、豊島区に住んでいたという印象が大きく、出身地で手塚治虫記念館のある兵庫県宝塚市と合わせ、この2つの街が手塚治虫の聖地というのが、現在では一般認識のようです。

実際には、手塚治虫が宝塚で暮らしたのは5歳から24歳まで。
1952年に上京し、都内の旅館を転々とした後、新宿区四谷の八百屋の2階を拠点にするものの、編集者の出入りが激しく苦情が出たことを理由に退去。引っ越し先のトキワ荘で暮らしたのは1953年春から1954年10月まで。
その後、雑司ヶ谷の並木ハウス、渋谷区代々木初台に転居し、練馬に新居を建てて暮らしたのが1960年で、自宅を売って杉並区下井草に引っ越したのが1974年。さらに、東久留米市へ新居を建てて晩年を過ごしました。

兵庫県宝塚市 5~24歳(約20年間)
東京都新宿区四谷 1952~1953年(1年弱)
東京都豊島区(トキワ荘) 1953年春~1954年10月(1年強)
東京都豊島区(並木ハウス) 1954年10月~1957年4月(2年半)
東京都渋谷区代々木初台 1957年4月~1960年8月(3年強)
東京都練馬区富士見台 1960年8月~1974年3月(13年半)
東京都杉並区下井草 1974年3月~1980年5月(6年強)
東京都東久留米市 1980年5月~1989年2月(9年弱)

こうしてみると、手塚治虫が東京で一番長く過ごしたのは練馬区であることがわかります。
一番有名なトキワ荘で暮らしたのは、わずかに1年程にしか過ぎません。
しかし現在では、当の練馬区民ですら、手塚治虫が暮らしていたことを知らない人が多いというのは、残念な気持ちがします。

今回のテーマは、練馬区民がなぜ手塚治虫について知らないのか、ではなく、練馬区にマンガ家が多く住む理由というのが主旨なので、そちらへ話を戻しましょう。

手塚治虫は、なぜ練馬にそんなに長く暮らしたのでしょう?
以前のコラムでも触れましたが、手塚治虫は元々、アニメを作るためにマンガ家になった経緯があります。
マンガ家として成功を収め、長者番付に載るほどの収入も得た手塚治虫は、ついにアニメ制作に乗り出します。

手塚治虫が初めて本格的にアニメに関わったのは、自身のマンガ『ぼくの孫悟空』を原案として製作された1960年公開の東映動画(現・東映アニメーション)作品『西遊記』でした。
西遊記』制作のため、手塚治虫は1958年に東映動画の嘱託社員として招かれたわけですが、何本ものマンガ連載を抱える身でありながら、東映動画に入り浸って制作に励んだそうで、代々木初台の自宅から通うのは面倒だと、結局、東映動画のある大泉からわずか3.5km程の富士見台に広大な土地を買って、住居兼仕事場を新築したのです。

つまり、手塚治虫が練馬区に引っ越してきたのは、東映動画があったから、というわけです。


次回は、手塚治虫以外のマンガ家が練馬に移り住むようになった理由を解説していきます。

〈了〉


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