練馬区にマンガ家が多く住む理由についての件② マンガ家たちが増えた理由
前回、手塚治虫が練馬区に自宅を建てた理由を解説しましたが、これにより、手塚治虫を慕って自然発生的にマンガ家が集まってきたわけではありません。
参考になるのは、トキワ荘システムです。
トキワ荘は、手塚治虫をはじめとするマンガ家が多く住むようになったことで知られていますが、それは手塚治虫を慕って勝手に移り住むようになったものではなく、編集者がマンガ家をこのアパートに住むように斡旋したからでした。
手塚治虫にとって初めての漫画連載である『ジャングル大帝』を機に、上京した手塚治虫にトキワ荘を勧めたのが、連載誌である「漫画少年」を出版する学童社※1だったのです。
学童社の「漫画少年」では、当時としては珍しく、一般人の漫画投稿コーナーを設けていました。
応募作品は、手塚治虫や寺田ヒロオが講評し、入選作品は雑誌に掲載してくれるとあって、全国の漫画家志望の少年たちが投稿を寄せ、才能のある漫画家の卵を発掘する場となっていたのです。
学童社は、手塚治虫に引き続き、投稿コーナーで才能を見い出された藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫といった若手マンガ家たちもこのトキワ荘に入居させました。
これには、手塚治虫より少し後にトキワ荘に住み始めた寺田ヒロオの、新人漫画家たちが切磋琢磨できる場にしたいという希望や、編集者にとっては、原稿の回収がしやすく、掲載予定の原稿が落ちそうな際に、代わりを頼む漫画家探しの手間も省けるなどのメリットもありました。
さらには、まだアシスタント制がなかった時代、締切りに間に合わせるための手伝いや助っ人も、住人たちで賄うことができるなど、漫画家たちを一つの場所に住まわせることの恩恵は大きかったのです。
トキワ荘には学童社以外の編集者もたくさん出入りしていましたから、このトキワ荘システムの長所は業界全体に知れ渡ります。
さすがにトキワ荘のような一つのアパートへと集めることまではしなくとも、近場に漫画家たちが住んでもらう方が便利だという認識は、どこの出版社でも考えたようなのです。
1960年に練馬に手塚治虫が新居を構えると、ここへ各出版社から編集者が原稿を取りに通うわけです。
手塚治虫が移り住んだ当時の練馬区富士見台は、一面畑だらけで、手塚邸の横には牛小屋があったというから驚きですが、それだけに地価や家賃が安いというメリットもありました。
そこで、各出版社の編集者たちが、自分が担当する漫画家をこの地へ住まわせようとし始めたのです。
1962年に松本零士、1966年に石ノ森章太郎が、編集者の紹介で練馬区に引っ越しています。
『あしたのジョー』のちばてつやは、編集者が建売の家を見つけてきてくれて引っ越したら、練馬の富士見台で、周りには、手塚治虫をはじめ、馬場のぼるや白土三平、石ノ森章太郎らが住んでいて、原稿回収ルート上に組み込まれたと語っています。
『JIN-仁-』の村上もとかは、多忙なために担当編集者に中央線沿線のアパートを探して欲しいと手配を頼んだのに、いざ引っ越してみたら練馬区で、近くに同じ編集者が担当していた古谷三敏が住んでいたと言います。
このように、物件探しを頼まれたり、上京してきた新人に住居を手配する際に、編集者たちが意図的に自分の担当漫画家の原稿回収ルートにある物件を斡旋したケースが多々見受けられるのです。
もちろん、全部がそうだったわけではなく、松本零士のアシスタントをしていた新谷かおるが、仕事場に近いからと練馬区に住むようになったケースや、『るろうに剣心』の和月伸宏は『ヒカルの碁』の小畑健のアシスタント、『ONE PIECE』の尾田栄一郎は和月伸宏のアシスタントという関係性であることから、同じく練馬に住んでいた理由が伺えます。
その他、流水凜子のように、そもそも練馬区生まれのマンガ家もいますし、大月悠祐子も、練馬区在住の吉沢やすみの娘ですから、同じく練馬区出身なわけです。
また、ここまでマンガ家たちが集まるエリアともなると、世代が下るにつれて、マンガ家志望の若者たちにとっては、有名マンガ家たちが住む憧れの地ともなっていきました。
高橋留美子などは、新谷かおるのアシスタントをしていた友人がいて、練馬区は憧れの地だったと語っており、東久留米市のマンションから練馬区大泉の新居に引っ越して以降、40年くらい練馬で暮らしています。
練馬に住んでいた&住んでいるマンガ家
馬場のぼる 1927年生(2001年没)『バクさん』
手塚治虫 1928年生(1989年没)『鉄腕アトム』『ブラック・ジャック』
白土三平 1932年生(2021年没)『サスケ』『カムイ伝』
牧美也子 1935年生『悪女聖書』
古谷三敏 1936年生(2021年没)『ダメおやじ』
モンキーパンチ 1937年生(2019年没)『ルパン三世』
石ノ森章太郎 1938年生(1998年没)『仮面ライダー』『サイボーグ009』
松本零士 1938年生(2023年没)『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』
ちばてつや 1939年生『あしたのジョー』
荘司としお 1941年生『サイクル野郎』『夕やけ番長』
ちばあきお 1943年生(1984年没)『キャプテン』『プレイボール』
池上遼一 1944年生『傷負い人』『クライング フリーマン』
西岸良平 1947年生『三丁目の夕日』『鎌倉ものがたり』
大島弓子 1947年生『綿の国星』
弘兼憲史 1947年生『課長島耕作』『人間交差点』
山岸凉子 1947年生『日出処の天子』『妖精王』『舞姫 テレプシコーラ』
安彦良和 1947年生『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』
山上たつひこ 1947年生『がきデカ』
石川賢 1948年生『ゲッターロボ』『魔獣戦線』
萩尾望都 1949年生『ポーの一族』『11人いる!』
吉沢やすみ 1950年生『ど根性ガエル』
吾妻ひでお 1950年生(2019年没)『ななこSOS』
竹宮惠子 1950年生『風と木の詩』『地球へ…』
いがらしゆみこ 1950年生『キャンディ・キャンディ』
すがやみつる 1950年生『ゲームセンターあらし』
あだち充 1951年生『タッチ』『みゆき』『ナイン』『H2』『クロスゲーム』『MIX』
村上もとか 1951年生『六三四の剣』『JIN-仁-』
新谷かおる 1951年生『エリア88』『ふたり鷹』
大島やすいち 1954年生『バツ&テリー』
はしもとみつお 1955年生『築地魚河岸三代目』
柴門ふみ 1957年生『東京ラブストーリー』『あすなろ白書』
高橋留美子 1957年生『うる星やつら』『めぞん一刻』『らんま1/2』『犬夜叉』
ゆうきまさみ 1957年生『機動警察パトレイバー』
三田紀房 1958年生『ドラゴン桜』
しげの秀一 1958年生『頭文字D』『MFゴースト』
流水凜子 1962年生『椰』
奥浩哉 1967年生『GANTZ』『いぬやしき』
久米田康治 1967年生『かってに改蔵』『さよなら絶望先生』『じょしらく』『かくしごと』
あずまきよひこ 1968年生『あずまんが大王』『よつばと!』
小畑健 1969年生『ヒカルの碁』『DEATH NOTE』『バクマン。』『プラチナエンド』
和月伸宏 1970年生『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』『武装錬金』
ハロルド作石 1969年生『ゴリラーマン』『BECK』
大月悠祐子 1974年生『ギャラクシーエンジェル』
尾田栄一郎 1975年生『ONE PIECE』
畑健二郎 1975年生『ハヤテのごとく!』『それが声優!』『トニカクカワイイ』
大島永遠 1979年生『女子高生 Girls-High』
黒丸 1980年生『クロサギ』
時代が下っていくと、街も発展して人口も増えていくので、練馬区だけでは事足りず、西武線沿線の各地にその範囲が広がっていったようですが、やはり練馬区在住マンガ家の多さは揺るぎない印象です。
今回のテーマである練馬区に住むマンガ家が多い理由をまとめると、編集者による意図的な移住計画とも言え、そうして集められたことで練馬区がマンガ家の憧れの地になっていき、マンガ家志望の若者や、成功したマンガ家が移り住む地になったと言えそうです。
次回に続く。
〈了〉
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※1 学童社の創業者である加藤謙一社長の次男で、「漫画少年」の副編集長だった加藤宏泰が、自身が入居していた新築アパートのトキワ荘を手塚治虫に紹介し、その他のマンガ家たちの入居についても加藤宏泰が手配したとのこと。
練馬区にマンガ家が多く住む理由についての件
① 手塚治虫はなぜ練馬に家を建てたのか
② マンガ家たちが増えた理由
③ 東映動画・東映撮影所の歴史を紐解いてみる