練馬区にマンガ家が多く住む理由についての件③ 東映動画・東映撮影所の歴史を紐解いてみる

前回までのコラムをまとめると、マンガ家を近場に集めると便利だということをトキワ荘の実例で知った編集者たちが、アニメが作りたかった手塚治虫が、東映動画(現・東映アニメーション)がある練馬区に引っ越してきたことをきっかけに、意図的にマンガ家たちを練馬区に移住させたこと。
さらには、時代が下るにつれ、そうしてマンガ家たちがたくさん住む練馬区が、マンガ家たちの憧れの地になったことが、練馬区にマンガ家が多く住む理由ではないかと結論づけました。

今回は、蛇足ながらさらに時代を遡り、手塚治虫が練馬区に引っ越してくる要因となった東映動画はなぜ練馬区にあったのかを見ていきたいと思います。

東映動画は、日動映画という30人程が所属する小規模なアニメ制作スタジオを、東映が買収して昭和31年(1956年)に設立したアニメ制作会社でした。
東映の東京撮影所は発足時から現在も練馬区大泉にあり、その南側の隣接地に新スタジオが建設され、このスタジオ完成に伴って第1期生となる大塚康生、楠部大吉郎、中村和子たち新たに雇用し、スタジオ竣工時に就業人員80人で第1作となる『白蛇伝』の制作に当たりました。
東映動画は、東映アニメーションになった現在も、本社機能こそ中野区に移転したものの、制作拠点であるスタジオは現在も変わらず大泉にあります)
つまり、東映動画が練馬区に出来たのは、東映東京撮影所があったからというわけです。

では、東映東京撮影所はなぜ練馬にあったのか?
この練馬区大泉の地に撮影所が出来たのは、昭和10年(1935年)のことです。

当時、日活、松竹に次ぐ業界第3位の配給会社であった帝国キネマ演芸に松竹が出資して設立された「新興キネマ株式会社」という新しい映画制作会社(1931年設立)があり、帝国キネマ演芸の持つ京都太秦撮影所を引き継いで映画製作が行われていました。

その後、映画がサイレント(無声映画)からトーキー(映像と音が同期した新たな映画スタイル)への変革期を迎えたことを機に、現代劇部を分離して東京に新たな撮影所を設けることになります。
その際に、武蔵野鉄道(現・西武鉄道)や地元の地主たちから大泉の土地の提供を受け、建設されたのが、新興キネマ東京撮影所だったというわけです。

第二次世界大戦時における映画企業統制によって大映に吸収される形で新興キネマ株式会社は消滅してしまい、撮影所は軍需工場に売却されて閉鎖されてしまいますが、戦後、これを吉本興業などの各社が共同で買収し、レンタルスタジオ(大泉スタジオ)として復活します。
大泉スタジオは、映画需要の増加から自社でも映画製作に乗り出して社名を大泉映画に変更し、同時期に東京横浜電鉄(現・東急電鉄)の興行子会社で、大映と提携して映画製作を始めた東横映画と共同で、両社の映画を配給する東京映画配給を設立しましたが、東宝、松竹、大映、新東宝の勢力に圧され、三社とも経営不振に陥ります。
そこで、再出発して起死回生を図るため、東京映画配給大泉映画東横映画を吸収合併し、昭和26年(1951年)に社名を改めたのが、東映だったのです。

当時の金額で、資本金1億7000万円に対し、負債額は11億円もあったというのですから、現在の東映からは想像もできないくらいの危うい船出だったことが想像されます。
こんな博打染みた映画会社が作られた背景には、東急電鉄の創業者である実業家・五島慶太の存在があります。

五島慶太は、破産覚悟で五島家の全資産を担保に住友銀行から融資を受け、自信がその才能を見込んで腹心にしていた大川博を東映の初代社長に抜擢して経営再建を任せます。
五島から東映を託された大川博はその期待に応えるべく、徹底した業務改善や、東宝との配給提携を解消して全プロ配給(東映独自の配給)への経営方針変更を断行します。

追い風となったのは、アメリカ占領中に禁止されていた時代劇が、講和条約締結によって解禁されたことでした。
大映のスター俳優だった片岡千恵蔵、市川右太衛門、大友柳太郎らが、待遇を不満として東映に移籍していたこともあり、彼ら時代劇スターを看板に月1本ペースで映画を製作しヒットを飛ばします。
さらには、昭和28年(1953年)に公開された戦争映画『ひめゆりの塔』が日本の映画興業史上の最高記録を更新する配給総収入約1億5000万円の大ヒットとなり、時代劇映画と共に東映を倒産の危機から救った要因ともなりました。

こうして五島慶太は大博打に見事に勝ったわけですが、このことがなければ、東映は倒産していたはずで、その後に作られた東映動画も存在することなく、手塚治虫も練馬区に住むことはなかったでしょう。
それどころか、東映動画が生んだ宮崎駿や、スタジオジブリを含め、現在のように発展を遂げた日本のアニメ文化すらなかったかもしれないことを思うと、なかなかにドラマチックな時代の分岐点であったのだと再認識させられます。

アピール下手な練馬区では、これ程の劇的なストーリーを語ってみせることはなく、練馬区民ですら知る人の少ないお話であるのですが、これこそが練馬の歴史だと、練馬区民の一人として自慢したい気持ちになります。

〈了〉


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