タツノコプロのことをふりかえってみた件 ⑰ タツノコプロの特殊性・昭和のホワイト企業?

吉田竜夫社長の人望
創立40周年に、草創期に焦点を当てた主要クリエイターたちのインタビューをまとめ、2002年に出版された「タツノコプロインサイダーズ」には、吉田竜夫のことを各人がいろんな視点で語られています。

そこから見えてくる吉田竜夫像というのは、とにかく優しくて褒め上手。
残された写真からみわかる通り、男前でファッションセンスも抜群で、女性にもモテていたのだとか。
両親を早くに亡くして高校時代から働き、弟2人の生活を確保するために上京して会社まで興した人物ですから、親分肌というか、頼れる兄貴的な存在として誰からも慕われていたことが、数々のエピソードから伺えます。

こうしろああしろと指示を出さず、スタッフ一人ひとりの才能を見抜いて、それぞれに合った仕事を任せる。
任せたスタッフの仕事を黙って見守り、大変な時は叱咤するのではなく、黙ってスタッフに混ざって仕事を手伝うといった、ちょっと出来過ぎなくらいに素敵な上司像が見えてきます。

吉田竜夫が生きていたらタツノコプロを離れなかったと語る方も少なくありません。
というのも、吉田竜夫が父親のように見守り、時には兄貴のように傍らに立ってくれるという安心感が当時のタツノコプロにはあり、スタッフは、吉田竜夫に認められたいと、より高いパフォーマンスを発揮するため励む理想的な関係が存在していたのでしょう。

タツノコプロはホワイト企業?
以前のコラムで、手塚治虫をはじめ、スタッフたちが徹夜作業で、作業を終えた者が事務所の廊下でごろ寝をしたいたという、手塚プロでの過酷なアニメ制作の状況について触れましたが、近年でもスタジオジブリのドキュメンタリーや『SHIROBAKO』などでスタジオに泊まり込んで作業に追われるような場面が見られます。

そのため、アニメの制作現場というと、朝から深夜まで、時には徹夜も当たり前という過酷な長時間労働のイメージを持つ方も多いはずです。
ところが、タツノコプロでは、布川ゆうじが入社した1971年にはタイムカードが設置されていて、朝はみんな定時に出勤して遅刻は厳禁。時間管理に対する規律がしっかりしていたというのです。

昭和の高度成長期は、アニメ業界のみならず、日本中のサラリーマンが残業や徹夜が当たり前で、猛烈に働いていた時代でした。
当時のアニメ会社の多くは、締切さえ守れば出勤時間は自由度が高いところが多かったといいます。
特にクリエイターが設立した個人経営のスタジオなどは、事務管理が曖昧なクリエイター主導の経営が行われるケースが多く、どうしても時間にルーズな風潮になりがちだったようです。

漫画制作プロダクションだった時代から分業システムを確立していたタツノコプロでは、時間管理の精神が高かい下地があったようです。
コンテや作画など順序が早い作業が遅れると、その後の仕上げやアフレコ、編集などの作業が遅れ、当然そのパートのパフォーマンスが下がります。
全体のパフォーマンスを落とさないようにするためには、上流の作業に淀みを持たせないことが重要だというのです。

タツノコプロでは、そうした下流の作業に迷惑をかけまいとする、時間に対する共通認識を創設メンバーである幹部たちが持っていたことで、会社全体にその意識が浸透していたようで、その現れがタイムカードや遅刻厳禁だったわけです。

下流に行く程影響が大きくなるので、コンテやデザインは特に早さが求められます。
笹川ひろしの仕事の早さも定評がありましたし、大河原邦男も同じく仕事の早いことで知られており※1、彼らの仕事ぶりを見た下の者たちも、タツノコプロで時間管理に対する規律意識を学んでいったのです。※2

インハウスへのこだわり
アニメ業界に時間管理に対する規律意識がなかなか浸透しない要因の一つは、フリーのアニメーターが自宅作業をしていたり、外部の会社に作業を発注したりすることで、規律意識の統一が測れないことにあります。
タツノコプロでは、吉田竜夫がインハウス(内製)にこだわっていましたが、そこにはスタッフの意識を統一するという理由もあったのかもしれません。

1970年代当時のアニメ制作会社では、作画のみを行うようなスタジオがほとんどで、企画は親会社やフリーのプロデューサーだったり、演出は作品ごとに担当するフリーの演出家が入ったりするわけです。
当時のタツノコプロは、企画文芸部、キャラクター室、演出部、文芸部、美術部を備え、撮影・編集まで※3一貫して制作を行える体制を持っていました。
このようなアニメ制作会社は、大手の東映動画の他には、虫プロタツノコプロしかありませんでした※4

意思疎通やスピード感などの制作体制の強みだけではなく、時間管理や制作に臨む姿勢などの意識の共有という効果も見込んでのことだとすれば、まさに吉田竜夫の意図した通りの制作環境となっていたものと思われます。
Googleをはじめとする海外IT企業の、部署の境を超えた社内交流を重視したオフィス環境などが、先進的な取り組みとして取り上げられるビジネス関連の記事を見かけますが、タツノコプロでは、何十年も前に同じような環境でアニメが制作されていたのです。

相模湖合宿に外部との交流
こうした意思疎通は、スタジオ内だけに留まりません。
吉田竜夫社長の生前には、吉田竜夫と脚本家、デザイナーを含めた複数人で3日間程も相模湖の旅館・湖畔亭に泊まって企画を考える「相模湖合宿」という恒例行事がありました。

音響監督を務めたオムニバス・プロの水本完は、吉田竜夫から、絵に関して必要なことがあれば是非教えてやって欲しいと言われ、何度も鷹の台のスタジオを訪れたそうです。
そうして演出家たちに、絵だけ繋がっていてもダメなのだとか、音響の立場から意見を伝えたとのこと。
そればかりでなく、タツノコプロのスタッフたちが、出演声優たちと一緒に旅行に出かけたりもしていたそうで、一緒に作品を作る仲間としてつき合いをしてくれたと語っています。

また、声優も同じ作品を作る仲間との考えからか、非常に大切にしていたことが数々の証言で伺えます。
吉田家では、タツノコ作品の出演声優たちを招いてホームパーティをよくしていたといいますし、吉田竜夫原征太郎らは、『ヤッターマン』のドクロベエを演じた滝口順平や、ボヤッキー役の八奈見乗児などと釣りに出掛けたりもしていました。

次回に続く。

〈了〉


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※1 大河原邦男の仕事の早さは有名で、石川光久(Production I.G創業者)によると、アニメ業界では締切日から描き始めるような人が多い中、大河原邦男は職人肌で、発注してから1週間以内には上がってくる天然記念物級に珍しいデザイナーだと証言しています。
また、本人も、必ず1日2日前には仕上げ決められたスケジュールを落としたことがないのが自慢だと語っています。

※2 タツノコプロでも徹夜作業が全くなかったわけではありません。
どうしても勝負をかけなければいけない場面では、当然徹夜作業をすることもありました。
社運をかけた『昆虫物語 みなしごハッチ』のパイロットフィルムの作成時には、スポンサー試写に間に合わせるためにスタッフだけでなく社長もスタジオに泊まり込み、連日徹夜作業を続けたそうです。
また、この規律に従わないスタッフもおり、その代表格が天野喜孝でした。
1~2週間も出社しなかったり、締切を守らなかったり、会社に犬を持ち込んだりしたこともあったそうです。
総務部長が空白だらけの天野喜孝のタイムカードを見せて、吉田竜夫社長に詰め寄ることもあったそうですが、彼は別格だからと宥めていたそうです。
その一方で、吉田竜夫は勤務態度などについて天野喜孝には何も言わず、天野喜孝の方も、吉田竜夫が守ってくれていることに気づいていて、仕事で返そうとしていたとのこと。

※3 録音部のみは外部で行っており、読売広告社の紹介で海外の映画やドラマの吹き替えをしていたオムニバス・プロが『紅三四郎』から音響制作を担当(それ以前は読売広告社のスタジオを使い、タツノコプロの音響担当者である石田忠賢や木村実、本田保則らが出向して制作)。
音響効果は『おらぁグズラだど』からイシダ・サウンドプロが担当。
音楽はコロムビアレコードが、オムニバス・プロと同じく『紅三四郎』から担当していました。
朝日ソノラマのそのシートが全盛の時代に『ジャングル大帝』のレコード盤を売り出して成功を収めた音楽プロデューサーの木村英俊が、嶋崎由理、堀江美都子、吉田よしみ(天童よしみ)らフジテレビのオーディション番組「日清ちびっこのど自慢」の受賞者の女の子たちをタツノコプロ作品の主題歌歌手として起用しました。

※4 手塚治虫が創設した虫プロは、撮影スタジオも兼備していましたが、企画やキャラクターデザインは基本的に手塚治虫の原作が担っていたために部署と呼べるものはありませんでした。
また、アニメーター中心の制作会社であったことから、録音施設などはなく、すべて外注です。
しかし、そんな虫プロも1973年に倒産してしまいましたので、それ以降は、企画から撮影まで一貫して行えるアニメ制作会社は東映動画とタツノコプロのみとなりました。