タツノコプロのことをふりかえってみた件 ⑯ 吉田竜夫亡き後のタツノコプロのスタッフ流出
前回は、45歳の若さで亡くなったタツノコプロの創設者である吉田竜夫社長が思い描いていたであろう、タツノコプロの将来像について取り上げましたが、今回は、残されたスタッフたちについてのお話です。
スタッフの流出
吉田竜夫の死後、社長を引き継いだのは長弟(次男)の吉田健二で、10年間務めた後、1987年に退任して末弟(三男)の九里一平が後を引き継ぎました。
人材育成や登用、分業を担う各部門なども含め、組織や体制が整っていたタツノコプロでしたが、やはり吉田竜夫という求心力を失った影響は予想以上に大きく、優秀なスタッフが次々にタツノコプロを去っていくことになります。
企画文芸部の鳥海尽三は吉田竜夫の死後間もなく退社して、前年に退社していた同じ企画文芸部の陶山智らと共に1977年12月に鳥プロを設立。
演出部でも、鳥海永行が1978年12月に退社し、前年に退社していた布川ゆうじが1979年5月に設立した演出家グループのスタジオぴえろに、同じくタツノコプロを退社していた高橋資祐、案納正美、上梨満雄、川端宏たちと共に参加。
美術部の部長だった中村光毅は、吉田竜夫が亡くなる前の1976年に部下の大河原邦男を伴って独立し、デザインオフィス・メカマンを設立していました。
キャラクターデザイン室の天野喜孝も1982年に退社して独立。
高田明美、河井ノアも前年の1981年に独立しています。
「タツノコ四天王」※1と呼ばれた西久保瑞穂、押井守も1979年に退社。西久保は出崎統に師事し、押井はスタジオぴえろに移籍して鳥海永行に師事。
同じくタツノコ四天王の真下耕一も1984年に退社して、タツノコプロ出身の堀川憲司と共にビートレインを設立。
さらには、創設メンバーでもある笹川ひろしが、同郷で高校時代からの友人である平田昭吾※2に説得され、1979年に以前のコラムでも取り上げた西崎義展プロデューサーの東京動画に移籍し、自身でも個人事務所(笹川事務所)を設立します(ただし、放送中だった『科学忍者隊ガッチャマンII』や『タイムボカン』シリーズについては、退社後も外部要員として最後まで参加しています)。
作画監督の宮本貞雄も1984年に東映動画の海外企画制作部へと移籍。
外注として多くの作品に参加し、「タツノコプロ三羽烏」とも呼ばれていたアニメーター・須田正己、二宮常雄、湖川友謙(湖川滋)もほどなくタツノコプロから離れていきました。
須田正己は、元々フリーでしたが、1980年代以降はタツノコプロ以外の作品にも多く参加していくようになります。
二宮常雄は、1982年に作画スタジオの二宮事務所を設立(数年で解散してフリーに)。
湖川友謙は、1977年からタツノコプロを離れ、東映動画や日本サンライズの作品に参加。1980年の『伝説巨神イデオン』から『重戦機エルガイム』まで富野由悠季とコンビを組んで日本サンライズのロボットアニメを制作しました。
その後も残っていた演出部の原征太郎とうえだひでひとも共に1987年に退社しています。
吉田家が経営から離脱
1990年代に入ると、タツノコプロではオリジナル作品の制作がほとんどなくなり、自社作品のリメイクやリブート作品、スピンオフ作品などが中心になっていきました。
オリジナル企画が通り難いスポンサーやテレビ局の方針の変化もありましたし、そこを押し通す程の強烈な作家性や個性を持ったクリエイターが、タツノコプロ側にいなかったのであろうことが伺えます。
また、優秀なスタッフが少なくなれば、当然スタジオとしての能力が下がるわけで、それは経営にも大きく影響し、タツノコプロは厳しい状況に追い込まれていったようなのです。
2005年には、大手玩具メーカータカラ(現: タカラトミー)が、吉田家から株式の88%を取得し、タツノコプロはタカラ傘下に入ることで、会社の命脈を保つことになります。
同時に、吉田健二会長と九里一平社長が退任。吉田洋子(九里一平夫人)たち一族の役員も全員退任したことで、吉田家がタツノコプロの経営から離れることになりました。
さらに2014年には、日本テレビが、タカラトミーの保有する株式のうち、発行済み株式54.3%を取得し子会社化します。
これには、プレスリリースなどを見ても、アニメ制作スタジオとしてのタツノコプロの制作能力というより、コンテンツ資産としてのタツノコキャラクターへの期待があるものと思われ、今後のキャラクタービジネス展開が見込まれそうです。
https://www.ntv.co.jp/info/pressrelease/755.html
現在のタツノコプロの社長は、『それいけ!アンパンマン』の初代プロデューサーを務めた元日テレの伊藤響氏です。
2022年に9代目社長に就任した伊藤氏は、インタビューにて、タツノコプロのオリジナルものを生み出していくことの重要性を語っています。
新体制となった今後のタツノコプロがどのような展開を見せるものか、注目です。
次回に続く。
〈了〉
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※1 タツノコ四天王というのは、演出部部長だった笹川ひろしが1976年に採用した新人演出家・真下耕一、西久保瑞穂(西久保利彦)、うえだひでひと(植田秀仁)と、1年遅れて入社した押井守の4人。
徳間書店の「アニメージュ」1983年1月号では、「アニメ界を制覇しろ、若手演出家座談会 いざ、出陣!」と題し、タツノコ四天王の4人による座談会という形で特集記事が掲載されていますが、この時すでに西久保瑞穂と押井守の2人はタツノコプロを退社していました。
※2 平田昭吾(1939年生)は、福島県会津若松市育ちで、同郷の笹川ひろしとは高校時代に共に「会津漫画研究会」を設立し、高校卒業後には共に手塚治虫に師事して内弟子となり、笹川ひろしに次いで専属アシスタント第2号となりました。
その後、手塚治虫の紹介で、アニメ作家の政岡憲三の門下生となり、1962~1968年には日活撮影所研究室に入社して特撮技術の開発や日活映画の特撮を手掛けます。
日活退社後は手塚プロダクションに入社して手塚治虫のマネージャーを務め、1971年に絵本作家として独立。