『宇宙戦艦ヤマト』誕生物語 その① ヤマト発進

連載コラム「アニメの未来を考える」

日本のアニメ史において『宇宙戦艦ヤマト』が果たした功績は極めて大きいと言えます。
アニメを、子供だけの娯楽から、大人までも楽しめるエンタテインメントに押し上げ、後の『機動戦士ガンダム』が誕生したのもこの作品があればこそですし(詳細は後述)、『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明も『宇宙戦艦ヤマト』を見てアニメーターを志したと語っており、この作品が与えた影響がいかに大きかったかを窺い知ることができます。

そこで、子供向けの娯楽アニメが主流だった時代に、この『宇宙戦艦ヤマト』がいかにして誕生したのかを見ていこうと思います。

『宇宙戦艦ヤマト』は、よく知らない人たちからは、『銀河鉄道999』のように松本零士のマンガをアニメ化したものだと勘違いされがちです。
この現象は、『デビルマン』や『美少女戦士セーラームーン』などでも見られますが、『宇宙戦艦ヤマト』も同様に、元々あったマンガを原作にアニメが制作されたものではなく、アニメ企画が先にあり、放送と同時進行でマンガも連載されたメディアミックス展開による作品です。

虫プロ商事で手塚治虫と個人契約を結んでプロデユーサーをしていた西崎義展※という人物がいます。
品行方正な常識人とは真逆な、一言では語れない破天荒な人物だったらしく、彼の人物像は、様々な所で彼の言動が語られているので、そちらを参照していただきたいのですが、その西崎が辣腕ぶりを発揮し、アニメ監督の山本暎一、脚本家の藤川桂介、SF作家の豊田有恒らを集めて自費で『宇宙戦艦ヤマト』(企画時の仮タイトルは『宇宙戦艦コスモ』)の企画書を作成し、自らテレビ局に売り込んで放送枠を獲得。

虫プロ商事時代に、アニメ作品の売り込みプロデュースを2作品手掛けただけで、アニメの制作に関しては全くの素人である西崎が、アニメ業界では実績ゼロの会社で、オリジナルのアニメ作品を、制作開始からわずか1年足らずで放映してしまうという常識離れしたことをやってのけたのです。
しかも西崎は、制作費を全額自己負担するという、外れれば大損、当たれば利益を独り占めできるという大博打を打っています。これはアニメ史上後にも先にもない、極めて稀有な出来事でした。

プロデューサーとしての西崎の主導のもと、監督・美術・設定デザインは松本零士が担当し、フリーの演出家・絵コンテマンだった石黒昇が演出として参加して、アニメ初監督の松本を補佐。旧虫プロ出身のアニメーターを多く起用した制作体制で、練馬区桜台のスタジオを中心に制作が行われました。

西崎の会社であるオフィス・アカデミーによる初作品となったこの『宇宙戦艦ヤマト』は、1974年10月に日本テレビ系の日曜19時半枠で放送を開始し、翌1975年3月まで放送されました。
同時刻にフジテレビ系で放送されていた『アルプスの少女ハイジ』などの裏番組の影響により視聴率低迷を覆すことができず、放送決定時に予定していた全39話(企画当初は全52話)が全26話に短縮される形で打ち切りとなりましたが、視聴率が低かったにも関わらず、ヤマトは確実に視聴者の心を捉えていました。

放送終了後、俄かに人気が表面化し、各地でいつの間にか結成されていたファンクラブが、テレビ局に再放送を嘆願するなどの盛り上がりを見せます。再放送の地域は全国に拡大して高視聴率を上げ、新しいファンクラブも続々と結成されていったといいます。

この勢いに乗じる形でテレビ版を再編集した劇場版が1977年8月に公開されると、各新聞社が社会現象として取り上げる程の記録的な大ヒットとなり、オフィス・アカデミーには、配給収入だけでも9億4,000万円が、さらに劇場で販売したパンフレットやポスターなどの関連グッズも自社製作でしたから、莫大な収益が入ってきたことになり、西崎はこの無謀とも思われた大博打に奇跡的な大勝利を納めたのです。

※西崎義展(1934~2010年)
元は芸能プロデューサーで、金銭トラブルを抱えて国外へ逃亡し、3年間西欧で活動して帰国。広告代理店の東洋広報が、負債処理に苦しむ虫プロダクション(旧虫プロ)のテコ入れをさせるために彼を推薦し、虫プロ商事に入社。悪評と借金のために芸能界では活動ができなかったことから、アニメ業界に活路を見出すべく奮起。『ふしぎなモルモ』のテレビ放映化の成功などの実績から社内での影響力を強め、手塚治虫との個人契約で事実上の社長代理として経営改革を行い、『海のトリトン』でアニメを初プロデュース、『ワンサくん』の企画制作も手掛けたが、人心掌握ができず孤立した挙句、敢え無く虫プロ商事、虫プロともに倒産。
虫プロで得た権利とコネをフル活用し、新会社オフィス・アカデミーを設立すると、アニメ作品のカレンダーやキャラクター商売を展開して事業は成功。虫プロ商事の倒産直前に企画を進めていた『宇宙戦艦ヤマト』を自費で制作して大ヒットを飛ばし、高額所得者番付に載るほどの莫大な利益を手にして一躍名プロデューサーとなりました。

※虫プロ商事:旧虫プロの負債処理目的のため、版権部・出版部・営業部を分離独立させる形で設立された子会社。1973年に倒産。


『宇宙戦艦ヤマト』誕生物語
その① ヤマト発進
その② ヤマトの光と闇 先駆性
その③ ヤマトの光と闇 権利問題