タツノコプロのことをふりかえってみた件 ⑮ 吉田竜夫の死とタツノコプロの未来像
タツノコプロの創設者である吉田竜夫社長は、肝臓癌のため、1977年9月5日に45歳の若さで亡くなってしまいます。
笹川ひろしによると、その徴候があったのは同年の6月末で、腹の調子が悪いと言っていたとのこと。
それから間もなく吉田竜夫は入院し、そのまま帰らぬ人となったわけですから、本人にとっても周囲の人たちにとっても、かなり急な出来事であったはずです。
吉田竜夫社長が思い描いていたであろうタツノコプロの未来
この吉田竜夫が亡くなった1977年というのは、昨年10月から放送を開始した『ポールミラクル大作戦』が好調で、1月からは大ヒット作となる『ヤッターマン』が放送を開始し、9月からは『一発寛太くん』、10月からは『風船少女テンプルちゃん』と『とびだせ!マシーン飛竜』の放送が始まるタツノコプロにとって多忙を極めた年でもありました。
吉田竜夫が創り上げたリアル・アクション路線の他に、笹川ひろしによるギャグ路線、『昆虫物語みなしごハッチ』からはじまったメルヘン路線という軸が生まれており、天野喜孝や大河原邦男、押井守といった次世代のクリエイターも育っていました。
かつて吉田竜夫が一人社長室で全ての作画を修正していた頃とは違い、タツノコプロにはすでに実力のあるアニメーターが揃っていたのです。
元々の漫画時代から確立していた分業制を土台に、企画文芸部、キャラクター室、美術部、演出部といったクリエイター部門を構え、そこへさらに、版権管理やコミカライズを担う出版・版権部、コマーシャルやPR映像制作を担うCM部まで作られていました※1。
1973年には、今井科学※2と組んでプラモデル企画会社タツノコランドを設立しており、オリジナルアニメ制作を軸に事業を拡大し、出版・玩具を展開するマーチャンダイジング事業を含めた複合事業グループを形成しようという構想があったことが伺えます。
遊園地タツノコランド構想
吉田竜夫の構想は、タツノコプロの事業グループ化に留まりません。
1974年の多忙を極める中で、吉田竜夫は笹川ひろしを伴って渡米し、ディズニー・プロダクション、ディズニーランド(1955年オープン)、ハンナ・バーバラ・プロダクションを視察しているのですが、ここにヒントがあります。
ディズニーの視察の動機には、いちクリエイターとしても、経営者としても、世界一のアニメ制作会社であるディズニーを見ておきたいという当然の欲求があったことは想像に難くないのですが、実は吉田竜夫には秘めたる夢があったのです。
それはタツノコプロの遊園地を作ることでした。
原征太郎は、生前の吉田竜夫から、キャラクターフィギュアが飾られたガラス張りのテーブルやキャラクターを模した遊具などを置いた喫茶店を、新宿に作る構想を聞いたことがあるそうです。
天野喜孝や河井ノア(下元明子)は、吉田竜夫から遊園地をやりたいと言われ、アイデア出しやイメージボードを描かされたといいます。
さらに九里一平によると、読売広告社を通じて栃木県今市市の大地主が1万坪の土地を提供するので、町興しのために遊園地を作ってくれないかという話がきていたとのこと。
読売広告社の調査により、交通量からの試算で鉄道でも引かないと経営が成り立たないということで、この話は頓挫したようですが、遊園地建設はただの構想に留まらず、かなり実現に向けての動きがあったわけです。
タツノコプロのスタジオの入口に『樫の木モック』の実物大に近いFRP製の立体物が置かれていたそうですが、これは今市市の遊園地誘致の際に作られたものなのだとか。
現在は、USJのアニメエリアや、ジブリパーク、淡路島のニジゲンノモリなど、アニメのテーマパークが次々に作られて話題となっていますが、まだ東京ディズニーランド(1983年オープン)も存在していなかった半世紀程も前の1970年代に、すでにキャラクター遊園地の構想を抱き、半ば実現しかけていたというのですから驚きです。
このことを踏まえて考えてみると、前述のプラモデル企画会社であるタツノコランドの社名が気になります。
プラモデルの会社としては、「ランド」はあまりマッチしないようにも感じますが、吉田竜夫が、この会社をいずれは遊園地事業を担う会社にしようと考えていたとするならば、合点がいく話です。
世界にタツノコキャラクターを羽ばたかせる
さらにもう一つ、渡米してハンナ・バーバラ・プロダクションに視察に行った際のお話。
ここでは吉田竜夫が、アメリカでは長く同じキャラクターを使い続けることを指摘し、新キャラクターの制作についてや、タツノコプロとの共演の可能性についての質問をしたそうです。
ハンナ・バーバラのスタッフの回答は、他のキャラクターに変える必要性も、他のキャラクターとの共演の必要性も共にないとのいうものでした。
当時の日本では、基本的に1年間で作品が終了してしまい、キャラクターが入れ替わるのが普通で、現在ではさらに短く、1クールや2クールで終わってしまう作品が主流です。
次々に生み出されるキャラクターは、ポジティブに捉えればアイデアが豊富で多様性があるとも言えますが、その反面、短命で使い捨てのように消費される存在とも考えられ、日本のアニメコンテンツの根深い課題でもあります。
吉田竜夫と笹川ひろしは、この回答を受けて、長く愛されるキャラクターを生み育てる必要性を感じたはずです。
共演の件も返事はNOでしたが、吉田竜夫が抱いていた構想の一端が伺えます。
手塚治虫が、作品の特定のキャラクターを別作品にも登場させるスター・システムを漫画に取り入れたことで知られていますが、それはあくまで自身の作品内に限られた話でした。
現在では、アニメのキャラクターがソーシャルゲームにゲスト出演するのは珍しくありませんし、タツノコプロでも、2008年に対戦型格闘ゲーム『タツノコ VS. CAPCOM』で、CAPCOMキャラとタツノコキャラが夢の競演を果たしています。
今では当たり前となっているこうした作品や企業の枠を超えたクロスオーバーやコラボなどを、これも半世紀も前に構想を抱いていたとすると、その先見性にまたしても驚かされます。
もしかすると、吉田竜夫は、作品を海外に販売することや、一時的なコラボなどだけではなく、その先に、タツノコプロが生み出したキャラクターたちをディズニーやハンナ・バーバラに売り込み、世界に巣立たせようとしていたのかもしれません。
吉田竜夫が思い描いていたのは、彼がよく言っていたという「世界の子供たちに夢を」という言葉通り、世界にタツノコキャラクターを羽ばたかせ、世界中の子供たちに永く愛される存在にすることにあったのではないでしょうか。
次回に続く。
〈了〉
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※1 CM部は、1970~71年頃に和光プロでCMの仕事をしていた佐藤俊彦が入社したことで発足。
佐藤俊彦によると、アニメは2割程度で、3割は実写の制作だったとのこと。
※2 今井科学株式会社は静岡県清水市(現・静岡市清水区)の模型メーカーで、『鉄人28号』や『サンダーバード』などのプラモがヒットします。
その後、版権取得した特撮番組の関連商品の不振の影響で1969年に倒産するも、バンダイが支援を引き受けたことで厚生会社となって1971年には会社再建を果たします(この時バンダイに売却された工場や引き受けた技術者たちによりガンプラが生み出されます)。
1973年のタツノコランドの設立の際には、今井科学は2,000万円を出資。
今井科学はタツノコランドの販売部門を請け負うことになり、今井科学の社屋のすぐ傍にタツノコランド静岡営業所が開設されました。
1975年からは『ロボダッチ』シリーズが、1980年代前半には『超時空要塞マクロス』のキャラクターモデルがヒットするも、その後に手掛けたアニメ作品の商品が不振で、帆船模型の人気低下もあって再び経営危機に陥ります。 1990年代にはイマイに社名変更し、過去製品の再販を進めるも2002年に再び倒産して業界から姿を消しました。