タツノコプロのことをふりかえってみた件 ② テレビアニメへの確信

前回、漫画制作工房としてタツノコプロが生まれた状況を説明しましたが、今回はそんなタツノコプロが、アニメ制作に挑むことになった経緯を見ていきたいと思います。

東映動画からのオファー
前回触れたように、まず、吉田竜夫社長と友人の笹川ひろしが、アニメをやりたいと語っていた背景があり、そんな中、アニメの共同制作をしないかという東映動画からの一本の電話がきっかけでした。
具体的には、九里一平による少年スーパーヒーローものの漫画『Zボーイ』を原作(原案)とするテレビアニメ化の打診だったとのこと。

東映側からの提案は、原作とキャラクターデザイン、演出をタツノコプロが担当し、作画以降のアニメ制作自体は東映動画が行う計画だったようです。
とはいえ、アニメのことを全く知らないままでは制作に支障が出るので、タツノコプロから出向という形で、東映動画がスタッフ研修をしてくれるという破格の条件でした。
これは、実はタツノコプロのスタッフのためだけの研修ではなく、東映動画では、元々新人アニメーターを養成してこの作品のスタッフに充てる予定だったため、そこへ一緒に参加して学んでもらおうというものだったわけです。
しかし、漫画連載を抱える吉田竜夫九里一平は行くわけにはいかず、そこで、笹川ひろし原征太郎、小華和為雄の3人が行くことになります。

研修は3か月間で、この作品制作のために集められた50名程の東映動画スタッフと共に、作画の基礎から最後はぐるりと回転する人物の全身像を描くという動画制作の講習を受講したそうです。
これとは別に、吉田竜夫笹川ひろしの紹介で、スタッフを何人か連れて虫プロにもアニメ制作のレクチャーを受けに行っていました。
先のコラムでも取り上げましたが、虫プロは1961年6月に設立し、初めての習作アニメ『ある街角の物語』が上映されたのが1962年11月でした。
当時はアニメ制作の教科書も養成所もない時代ですから、アニメがどうやって作るのかを知りたければ、東映動画と虫プロに教えてもらう他に方法はなかったのです。

『宇宙エース』の顛末
3人が東映動画で研修を受けている間も制作は進み、キャラクターデザインから設定、プロットなどが出来つつあり、タイトルも『宇宙エース』に決まりますが、問題が発生します。
東映動画主導部では、タツノコプロには制作の一部を依頼したに過ぎず、『宇宙エース』の版権は全て東映動画の所有となるという見解でしたが、吉田三兄弟は創作者としての権利を主張し、交渉が決裂してしまったのです。

クリエイター思考が強い方の中にはビジネス思考が弱い人が多く、こうした場合、作品が作れるのだったら大概のことは我慢します、あるいはどんな条件でも飲みますという感じになりかねません。
実際、手塚治虫などはまさにそんな感じでしたから、企業やビジネスマンたちにイイようにされ、結果的に会社を潰してしまいました。
ところが、いち早くスタジオを法人化し、分業体制を確立して漫画制作工房を作り上げていたタツノコプロは、ビジネスというものを理解していましたから、権利を持っていかれては、会社に何も残らないことがわかっていたのです。

大決断
こうして物別れに終わった『宇宙エース』。
東映動画にとってもタツノコプロの主張や離脱は想定外でしたが、そこは大企業ですから切り替えが早く、新企画を立てて作品を制作しました。
それが1965年2~11月に放送された東映動画初の宇宙SFアニメ『宇宙パトロールホッパ』です。

一方のタツノコプロには、動画研修を受けた3人と、キャラクターデザイン、設定、プロットなどがあるのみ。
普通だったらここで手を引くでしょう。ビジネス思考が強ければ尚更です。
ところが吉田竜夫社長は、継続という決断を下します。

テレビの力
この時期、タツノコプロでは、『少年忍者部隊月光』という作品を少年画報社の漫画雑誌「少年キング」で連載していました。
第二次世界大戦下で、忍者の末裔たちによる特殊部隊を主役にした作品で、『忍者部隊月光』のタイトルでテレビドラマ化されました。

ドラマ化に際し、舞台設定を第二次世界大戦から現代に、主人公たちを少年から青年に設定を変更されましたが、フジテレビのゴールデンタイムに放送されると絶大な人気を得て、1964年1月~1966年3月まで全130話という長期間にわたる人気番組となりました。

子供たちの間では主人公の手裏剣投げのポーズが大流行する程で、この人気に「少年キング」では、多摩動物公園近くにあった戦災孤児の養護施設(児童学園)に、忍者部隊の衣装を着た主演俳優たちと、原作者である吉田竜夫が表敬訪問をする企画を実施しました。

この時の園児たちの歓迎ぶりを体験した吉田竜夫は、当時台頭してきたテレビという新しいメディアの影響力の凄さを肌で感じ、これからはテレビだと確信を持ったというのです。

吉田竜夫が、是が非でもテレビアニメをやりたいと思った背景には、テレビという新メディアと、テレビアニメという新コンテンツの将来性に対する確信が背景にあったのは言うまでもありません。
これからアニメの時代が来るという、その確信こそが、吉田竜夫をしてアニメに走らせた原動力だったのです。

手塚治虫は、裕福な家庭に育ち、アニメを作りたいという夢の実現のため、マンガでお金を稼いで会社を作り、自費を投じてアニメを制作しました。
吉田竜夫は、貧しい家に育ち、高校時代からアルバイトをして家計を助けていました。さらに挿絵画家として一家(兄弟)の生計を立てるために上京して漫画家として成功し、これからはテレビアニメだと未来を見据えた会社の舵取りでアニメ制作を選択したという違いがありました。

もちろんそこには、自分の絵が動き、声が吹き込まれることへのクリエイターとしての願望や、子供たちに夢を与えたいという金儲け以外の希望もありましたが、夢だけではないというところが、手塚治虫とは異なる点と言えるでしょう。

次回に続く

〈了〉


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小華和為雄(1936~2019年)は、多摩美術大学卒で東映動画に見習い入社するも不採用となってしまったため、知り合いの伝手でアニメCM制作会社に就職。タツノコプロのスタッフの一人として東映動画の動画研修に参加するも、東映動画とタツノコプロの交渉が決裂すると、そのまま東映動画に残り、1965年に東映動画の社員になっています。