タツノコプロのことをふりかえってみた件 ③ アニメ制作へのチャレンジ
前回は、東映動画との交渉が決裂した吉田竜夫が、それでもアニメ制作を諦めなかった背景を見てみましたが、今回はその続きです。
アニメの実制作を東映動画が請け負ってくれるはずだったアニメ企画が頓挫してしまったタツノコプロに残ったのは、動画研修を受けた3人と、キャラクターデザイン、設定、プロットといったものだけでした。
それでもテレビアニメの時代が来るという確信を抱く吉田竜夫の一存で、タツノコプロだけでアニメを作るというチャレンジすることになります。
スタジオ建設にアニメーターの募集
決断した吉田竜夫の動きは早く、建てたばかりの自宅を担保に借金し、東京都国分寺市の雑木林にある宅地を購入。木を切ってそこにプレハブのスタジオを建て(1964年秋に完成)、同時にアニメーター希望者を募集する新聞広告を全国紙で出します※1。
というのも、当時のタツノコプロにいたのは漫画家を目指すアシスタントたちで、社長がアニメをやろうと言っても賛同する者はなく、アニメーター志望者を新たに集める必要があったからでした。
笹川ひろし、原征太郎の2人は、研修で東映動画のスタッフとも仲良くなっており、東映動画からも引き留められた※2そうですが、吉田竜夫に頭を下げられては断れず、一緒にやることを決意したとのこと。
場所は国分寺ですが、最寄り駅は鷹の台駅。
筆者は大学時代に鷹の台の隣の恋ヶ窪に住んでいたことがあり、このスタジオも見たことがありますが、タツノオトシゴのロゴマークが印象的な白壁の建物だったのを覚えています。
2005年にタツノコプロがタカラの子会社になった際にスタジオは閉鎖。残念ながら、残されていた建物も2008年に解体されてしまい、現在は閑静な住宅地で当時を思わせるものは何もなく、跡地にはアパートが建っています。
ちなみに、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』で知られる秋元治※3は、高校卒業後の2年間をこのプレハブ社屋で働いており、第40巻の「アニメ戦国時代!?の巻」、第91巻の「アニメ現代事情の巻」、第97巻の「アフレコ見学会の巻」に出てくるアニメ制作会社は、この社屋をモデルに描かれています。
話を戻して、新人スタッフ募集についてですが、当時は『鉄腕アトム』でアニメに対する注目度が高く、これに憧れを抱いた者も多かったようで、かなりの人数の応募があったとのこと。
募集は未経験可のアニメーター志望者ということだったので、下志津駐屯地(千葉県)のロケット実験訓練隊にいた窪詔之をはじめ、散髪屋の西岡たかしなど、様々な職種の方が集まったようです。
こうして集まった30人程の新入社員を教育するのは、つい数か月前に東映動画の研修で生徒だった笹川ひろし、原征太郎なのです。
しかも、研修に使ったテキストは、東映動画の研修で自分たちが使ったものをそのまま流用しており、東映動画のロゴも付いたままだったそうです。
アニメは動画だけにあらず
動画の作り方がわかり、制作スタジオも完成、さらスタッフも集まりました。
これでアニメが作れると思ったら、事はそんなに簡単ではありませんでした。
笹川ひろし、原征太郎が教えてもらったのは動画の作り方だけでしたから、セル画にどうやって色を塗るのか、フィルムの撮影から声を吹き込む方法、どうやったらテレビで放送できるのかなどなど、作画以外のことがまったくわかりません。
そもそもセルがどこで売っているのかすらわからず、いろんなところに聞きにまわって、文字通り一から作り上げていったというのだから、その苦労は並大抵のものではなかったことでしょう。
漫画制作に関しては先進的な分業システムを確立していたタツノコプロでしたが、この時はアニメ制作自体が手探り過ぎて、笹川ひろし、原征太郎たちが一人何役もこなし、四苦八苦しながら作り上げていったという状態だったようです。
笹川ひろしはこの時のことを後年、まるで学生の文化祭のようで、今思い出してもゾッとすると語っています。
もちろん当時採用された面々には、未経験者だけではなく、虫プロで演出をしていた奥田誠二や、東映動画で仕上げをしていた中村光毅※4などのアニメ経験者もいましたから、彼らの知見も大いに貢献したと思われます。
『宇宙エース』放送開始
こうして手探りで作り始めた初アニメ制作は、約半年をかけてパイロットフィルムが完成。
このパイロットフィルムを手に、吉田竜夫社長自らが広告代理店や放送局をまわり交渉を行い、同時にスタジオでは本放送の第1話制作を始めます。
ところが、第1話が完成した頃になっても、スポンサーがつかず、なかなかテレビ放送枠が決まらなかったそうです。
当時、マンガ業界ではそこそこ名の知れたタツノコプロですが、アニメ制作会社としては無名ですから、売り込みはかなり苦労したようです。
それでも、かつて吉田竜夫が『ハリス無段』というタイアップ漫画を描いた縁で、菓子メーカーのカネボウハリス(現・クラシエ)にスポンサーを引き受けてもらい、広告代理店の読売広告社を通じてフジテレビ系列での放送が決定。
こうして1965年5月8日の土曜18:15~18:45に『宇宙エース』の第1話が放映。
この時すでにスタッフは60~70人まで増えており、第1話の放送時間には、スタジオの庭にテレビを置引っ張り出してきて、スタッフ総出で祝杯をあげながら見たとのこと。
漫画作家集団がアニメ制作プロダクションとしての第1歩を刻んだわけですが、第1話から視聴率8.3%を記録すると、その後も順調に視聴率は伸びていき、平均視聴率は16.5%、最高視聴率は第22話の23.5%という人気番組となり、約1年間にわたって放送されました。
次回に続く。
〈了〉
神籬では、アニメ業界・歴史・作品・声優等の情報提供、およびアニメに関するコラムも 様々な切り口、テーマにて執筆が可能です。
また、アニメやサブカル系の文化振興やアニメ業界の問題解決、アニメを活用した地域振興・企業サービスなど、様々な案件に協力しております。
ご興味のある方は、問い合わせフォームより是非ご連絡下さい。
※1 笹川ひろしによると、全国紙の新聞広告は2~3回程出し、電信柱にも貼り紙をしていたそうです。
※2 この時、笹川ひろしを引き留めたのが、東映動画のプロデューサー・原徹で、後に東映動画を退社してアニメ制作会社トップクラフトを設立。この会社で制作した『風の谷のナウシカ』が大ヒットとなったことで、徳間書店の出資でトップクラフトを解体してスタジオジブリを設立し、スタジオの責任者として常務取締役に就任しました。
※3 秋本治(1952年~)は、高校ではデザイン科に所属してマンガ劇画同好会を立ち上げ、同人サークルにも参加しており、高校卒業後にはアニメーターを志して虫プロに行ったとのこと。ところがその時期、虫プロでは求人をしておらず、虫プロの方からタツノコプロを紹介され、タツノコプロに入社することに。
秋元治は1952年12月生まれなので、通常であれば1971年の入社となるでしょうか。1971年は、虫プロ低迷期で赤字を抱え、手塚治虫が社長を退任した年なので、この状況も頷けます。
『科学忍者隊ガッチャマン』などの作品で2年間動画を務めるも、仕事が多忙となり、入院中の母の看病が十分に出来なくなったことを理由に退社。母の看病の傍ら、投稿漫画家として活動し、新人賞に応募した『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が入選し、読切掲載を経て連載に至りました。
※4 中村光毅(1944~2011年)は、アニメの背景美術をやりたくて東映動画に入社するも、仕上げ担当で美術をやらせてもらえなかったために、タツノコプロに移籍。移籍後は志望通り美術を担当。
現在では考えられないことですが、1年間放送された『宇宙エース』では中村光毅を含む3名だけで背景美術を担当していたとのこと。
約13年間在籍し、数多くの作品で美術監督だけでなくメカニックデザインも担当した後、大河原邦男と共に独立してデザインオフィスを設立し、『機動戦士ガンダム』『うる星やつら』『北斗の拳』『風の谷のナウシカ』など数多くの作品で美術監督・美術デザインを担当。