タツノコプロのことをふりかえってみた件 ① タツノコプロ前夜
40年代以上の方にとって、タツノコプロと言えば子供の頃に親しんだアニメ作品の多くを担うアニメブランドで、知らない人がいないのじゃないかという程に有名なアニメ制作会社でした。
『タイムボカン』シリーズをはじめ、『マッハGoGoGo』『ハクション大魔王』『科学忍者隊ガッチャマン』『昆虫物語 みなしごハッチ』など、誰しもこれらの作品名を一度は聞いたことがあるはずです。
今年2024年は辰年でタツノコプロの年とのことで、各地や各企業でタツノコラボが実施されています。
ところが、日本アニメが世界中にからも羨望されるまでに発展した現在において、タツノコプロのことを知っている人は少数派で、ことに若い方々では、名前すら聞いたことがないという声もあり、残念でなりません。
そこで今回は、昭和時代の子供たちから絶大な支持を得ていたタツノコプロを取り上げてみたいと思います。
アニメ黎明期の三大アニメ会社の一つ
タツノコプロは、1962年に「株式会社竜の子プロダクション」の名前で設立された、日本でも屈指の歴史あるアニメ制作会社です。
現在のアニメ制作会社のルーツは、大きく分けて3つの源流があると言われており、一つは東映の子会社である東映動画(1948年設立、現・東映アニメーション)、もう一つは手塚治虫が立ち上げた虫プロ(1961~1973年)、そしてこの2つに続き、現在の日本アニメの源流の一つに数えられているのが、タツノコプロというわけです。
そんなアニメ制作会社の代表の一つに数えられるほどのタツノコプロですが、元々はアニメ制作のために作られた会社ではありませんした。
実は、あまり知られていないことですが、タツノコプロというのは、漫画スタジオとして創設されたプロダクションだったのです。
タツノコプロ前夜
タツノコプロを設立したのは、吉田三兄弟です。
長男の吉田竜夫※1は、終戦後まもなく両親を亡くし、祖母に養われて地元京都の高校に通いながら、独学で習得した絵で、新聞・雑誌の挿絵から紙芝居の下絵などを手掛けて生計を立てていましたが、結婚して上京。1955年から梶原一騎と組んで絵物語※2制作を行った後、1960年代に漫画家へと転向。忍者漫画で人気を博しました。
時代的には、1959年に漫画雑誌「週刊少年マガジン」「少年サンデー」が創刊し、1960年には手塚治虫が練馬区に新居を建て、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫がまだトキワ荘で漫画を描いていた頃です。
次男の吉田健二※3と三男の吉田豊治(九里一平※4)も兄を追って上京しており、健二は竜夫のマネージャー、豊治は竜夫のアシスタントとして兄の活動を手伝っていました。
そんな吉田三兄弟が、竜夫と豊治が漫画を描き、健二が事務を担当する体制で、1962年に会社を興します。
実際には、豊治がすでに「九里一平」のペンネームで漫画家デビューしていた上、竜夫のアシスタントが増えたことや、竜夫の作品の版権管理をする必要性からの起業だったようです。
会社名に関しては、九里一平によると、設立が辰年で、自分も辰年生まれ、そして竜夫と三辰で縁起が良く、さらにプロダクションという名前に憧れがあったとのこと(実際には1962年は辰年ではなく寅年なので九里一平の勘違いでは?)。
吉田竜夫は、挿絵画家から漫画家に転向しますが、ストーリーテラーではありません。
そこで、当初は原作者ありきで作画担当という形でしたが、人気漫画家だった天馬正人※5を口説き落としてタツノコプロ専属の原作・構成作家として引き入れます。
さらには、辻なおき※6、望月三起也※7、中城健太郎、江原伸、不二みねお、原征太郎※8といったメンバーをアシスタントとして雇い入れ、漫画の制作プロダクションとしての体制を整え、各誌での連載をこなしていたのです。
ここまで見てみると、違和感を抱く方もいるかもしれません。
現在ではその名を知る人も少ない吉田竜夫ですから、なぜ吉田竜夫のもとにそこまで人が集まるのか不思議に思う方もいるでしょう。天馬正人などは自らの漫画制作を辞めてまでタツノコプロに参加している程ですから尚更です。
実は当時の吉田竜夫は、緻密な描写や大胆な構図、そして何より圧倒的な画力で、超売れっ子漫画家になっていました。
手塚治虫並みに漫画連載を複数抱えており、それを複数のアシスタントを使い、人海戦術で対応していたのもよく似ています。
手塚治虫の場合は漫画のストーリーや構成、ネームは自身で行い、背景や墨入れなどをアシスタントに任せるという分業でしたが、タツノコプロでは、ストーリーは原作者が担当し、コマ割り(構成)、背景、人物、乗り物の作画などの作業にそれぞれ専門担当がいて、吉田竜夫は忙しい時には顔くらいしか描かないという、完全分業の工房化がされていたのだそうです。
さらに、笹川ひろしの証言によると、主人公のいろんな表情の顔が大小様々に印刷されていて、それを切り貼りして漫画を制作していたというのだから、漫画家というよりも、漫画製作所の監督というのに近い印象です。
アニメのきっかけは笹川ひろしとの会話から
タツノコプロを語る上で、もう一人重要な人物がいます。
それが、後に数々のタツノコプロのアニメ作品で監督を務めることになる笹川ひろし※9です。
笹川ひろしは、手塚治虫の元チーフアシスタントで、独立して漫画家デビューしていました。
家が吉田家の近所だったことから、吉田三兄弟とは友人関係で、吉田竜夫の漫画の手伝いをすることもあったとのこと。
そんな笹川ひろしは、元アシスタントであった縁から『鉄腕アトム』の絵コンテを2話分担当したことがあり、これから漫画はアニメに取って代わられる時代が来るのだと漠然とながら感じていたそうで、吉田竜夫ともそんなことが話題に上り、2人してアニメをやりたいという話が盛り上がっていったのだといいます。
当然ながら絶大な人気となったテレビアニメ『鉄腕アトム』を吉田竜夫は見ていましたし、そもそも3歳ちょっとしか離れていない手塚治虫をライバルとして意識していたことがあり、笹川ひろしが話を持ち出すまでもなく、当然アニメに興味を持っていたはずです。
そんな折、東映動画からアニメの共同制作をしないかという話が持ち込まれます。
次回に続く。
〈了〉
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※1 吉田竜夫(1932~1977年)京都市生まれ。三兄弟の長男。本名は吉田龍夫。
結婚したばかりの妻と1954年に共に上京して浅草で暮らし、1年後、新小岩(葛飾区)の貸家に引っ越して弟2人を呼び寄せます。その後、国分寺市多喜窪に住居兼仕事場の新居を構えます。
※2 絵物語というのは、絵と文章が半々、もしくは絵の方がやや多い少年向けの読み物。絵の方が主役で、紙芝居の文章を絵の横に載せたものというのが実態に近いかもしれません。
※3 吉田健二(1935年~)は、京都市生まれ。三兄弟の次男。兄同様に絵を描いていたものの、商業作品に向かないことから、兄のマネージャー兼原作担当としてサポート。原作者としてのペンネームは丸山健二。
※4 九里一平(1940~2023年)は、京都市生まれ。三兄弟の三男。本名は吉田豊治。
漫画家としてのデビューは、当時はまだ絵物語の挿絵画家だった兄・竜夫より早く、1959年に赤本の漫画単行本『あばれ天狗』を出しています。
※5 天馬正人(1927~1994年)は、漫画家・太田じろうの内弟子で漫画家デビュー。吉田竜夫に請われて竜夫専属の構成作家となります。その後、タツノコプロ出版部の部長となり、出版物の企画・構成を担うことになりました。
※6 辻なおき(1935年~)は、京都市生まれ。1997年没。吉田竜夫とは京都で共に紙芝居の絵描きをしていた頃からの盟友で、1955年に上京。売れっ子漫画家の吉田竜夫に借りた金がたまってしまい、労働で返そうとアシスタントを始めたとのこと。
実はミュージシャン志望で、東京でギターを習っていたものの挫折。京都に帰ろうとするのを、まだ絵があるじゃないかと吉田竜夫に引き留められ、漫画家へ転身。代表作は『0戦はやと』『タイガーマスク』(原作:梶原一騎)。
※7 望月三起也(1938~2016年)は、神奈川県横浜市生まれ。漫画家・天馬正人に師事した後、天馬の紹介で吉田竜夫のアシスタントになります。代表作は『ワイルド7』。
※8 原征太郎(1939~)は、高知県出身。上京して漫画家となり、1962年にタツノコプロにアシスタントとして入社。『宇宙エース』の制作を機にアニメ制作に転向。『マッハGoGoGo』からアニメ演出家となり、1987年にタツノコプロを退社した後はフリーの演出家として活動。
※9 笹川ひろし(1936年~)は、福島県会津若松市生まれ。仲間と共に会津漫画研究会を結成して手塚治虫に漫画を投稿していたことから、手塚に誘われて上京し、手塚のフルタイム専属アシスタント第一号(チーフアシスタント)となります。
家が近かったことから編集者に紹介されて吉田竜夫の家を訪れたことをきっかけに、吉田三兄弟と交流することに。
『ヤッターマン』のボヤッキーが会津若松市出身なのは、笹川ひろしがモデルであるからなのだとか。