アニメ制作会社の生存戦略 番外編 スタジオジブリその① 創設
先のコラムで制作会社の分類を試みてみましたが、今回はその枠組みに入らない番外編としてスタジオジブリを取り上げます。
スタジオジブリの創設
スタジオジブリが設立されたのは、1985年6月15日のことです。
多くの人が誤解していますが、『風の谷のナウシカ』が劇場公開されたのは、ジブリ誕生の前年である1984年で、当時はトップクラフトという名前の制作会社でしたから、厳密に言うと『風の谷のナウシカ』はジブリ作品ではなく、トップクラフト作品ということになります。
このトップクラフトが改組される形でスタジオジブリが誕生するのですが、では、トップクラフトとはどんな会社なのかというと、東映動画の制作課長だった原徹※が創設した制作会社で、企画、演出、作画から仕上、撮影、編集まで全ての制作工程を自社のみで行える環境を揃えており、海外との合作作品をメインに、広告代理店の博報堂製作の国内作品など幅広く手掛けていました。
『風の谷のナウシカ』の制作にあたり、監督を務める宮崎駿(1982年にテレコム・アニメーションフィルムを退社してフリー)が、かつての東映動画時代の先輩である原徹に依頼して、トップクラフトが制作を引き受けることになりました。
『風の谷のナウシカ』は配給収入※が7.4億円とのことなので、興行収入にすると14.8億円。
同年公開の『ドラえもん のび太の魔界大冒険』『忍者ハットリくん+パーマン 超能力ウォーズ』(同時上映)の配給収入16.5億円(興行収入33億円)、『東映まんがまつり』(『キン肉マン 奪われたチャンピオンベルト』『超電子バイオマン』『宇宙刑事シャイダー』『The・かぼちゃワイン ニタの愛情物語』の4作品)の配給収入8.3億円(16.6億円)よりも低く、その年の配給収入トップ10にも入っていませんでしたが、興行的には十分に成功と言える成績を収めました。
徳間書店は、『宇宙戦艦ヤマト』などのアニメブームを受けて1978年に創刊したアニメ情報専門誌「アニメージュ」が、創刊号の7万部完売や、その後25万部にまで部数を伸ばしていたことから、以前よりアニメの可能性に着目しており、自社によるアニメ映画興行初参入となる『風の谷のナウシカ』が興行的に成功したことや、国内外で複数の映画賞を受賞したこともあって、アニメ事業への本格進出を決定します。
折しも、『風の谷のナウシカ』を制作したトップクラフトは、その後に制作した作品が振るわず、テレビアニメ『コアラボーイ コッキィ』(1984年10月~1985年3月放送)の制作終了後の1985年に解散していました。
徳間書店によるアニメ事業として、『風の谷のナウシカ』の次の作品となるアニメ映画(『天空の城ラピュタ』)制作が決定し、宮崎駿と高畑勲のための専用スタジオを設立することになった時、このトップクラフトの旧メンバーたちが集められ、改組という形でスタジオジブリが設立されたわけです。
※原徹(1935~2021年)
早稲田大学漫画研究会の創設者の一人で、大学卒業後の1959年に東映動画に入社。制作課長として各作品の制作プロデューサーを務めるも、高畑勲の初監督作品『太陽の王子 ホルスの大冒険』の興行不審の責任を取る形で東映動画を退社。アニメ制作会社トップクラフトを設立して代表取締役社長を務めるも1985年に解散。
同年、徳間書店の出資で設立されたスタジオジブリの常務取締役に就任。『おもいでぽろぽろ』の制作遅延の打開策として宮崎駿が唐突に言い出した新スタジオ建立案に反対し、宮崎駿に賛成する徳間康快社長やプロデューサーの鈴木敏夫らと経営方針が折り合わず、1991年にスタジオジブリを退社。
※1999年以前は、映画の興行成績発表に興行収入ではなく、配給収入が使われていました。
アニメ制作会社の生存戦略
番外編 スタジオジブリその① 創設
番外編 スタジオジブリその② 特性
番外編 スタジオジブリその③ 経営状況