練馬区にかつてあったトキワ荘的な聖地の件① 大泉サロン
みなさんは「大泉サロン」というものをご存じでしょうか?
1970~1972年の約2年間というごく短い期間でしたが、少女漫画の黄金時代を築いた「花の24年組」と呼ばれる女性マンガ家たちが交流した「女版トキワ荘」とでも言うべき借家のことです。
この家が東京都練馬区南大泉にあったことから、その地名をとって「大泉サロン」と呼ばれていました。
中心になったのは、竹宮惠子と萩尾望都の2人の女性マンガ家です。
『風と木の詩』や『地球へ…』などで知られる竹宮惠子(1950年1月生)は、徳島出身で、高校3年の時に集英社の「週刊マーガレット」の新人賞に佳作入選して掲載されデビューを飾るも、上京はせずに徳島大学教育学部の美術科に進学し、学業と平行して漫画雑誌に作品投稿をしていました(本人曰く、就職か進学かの二択しかなく、マンガを描く時間が欲しいから大学に進学したのだとか)。
その後、徳島県にいながら複数の出版社から執筆依頼を受けるようになると、1970年5月に大学を中退して上京。
小学館の編集者が手配した練馬区の借家に住み始めます。
練馬区であったのは、竹宮惠子が慕っていた石ノ森章太郎※1が住んでいたからでしたが、友人はおろか知り合いもいない地で、全く人と話さない日が続いて精神的にまいってしまったそうです。
『ポーの一族』や『11人いる!』などで知られる萩尾望都(1949年5月生)は、福岡県大牟田市出身で、高校卒業後は福岡市内の日本デザイナー学院ファッションデザイン科に進学していました。
高校時代は同人漫画家として活動し、専門学校時代にマンガ誌に投稿して集英社の「別冊マーガレット」で行われた「少女まんがスクール」で金賞を受賞するも掲載はされず、冬休みに上京して出版社へ持ち込みなどをし、結果、講談社の「なかよし」夏休み増刊号に短編作品が掲載され、デビューを飾ります。
卒業間近の1970年春、出版社の持ち込みで上京した際に、講談社の編集者からの紹介で、臨時のアシスタントとして竹宮惠子の手伝いをすることになるのですが※2、初めて会った2人はたちまち意気投合。
この時、萩尾望都は、文通をしていた練馬区大泉在住の増山法恵(後のマンガ原作者)の家に泊まっており、ほどなくして萩尾を通じて竹宮と増山も知り合い親しくなったとのこと。
この増山法恵が、自宅の斜め向かいの物件(2階建て2戸連棟のうちの1戸)に空きが出たのを知ると、竹宮惠子と萩尾望都に共同生活をしないかと提案したことで、2人の同居が始まったわけです。
増山法恵は、さらにこの借家をサロン化することを計画し、竹宮惠子と萩尾望都にファンレターを送ってきた同年代の女性マンガ家たちを家に招き、マンガ家志望の女性たちの交流の場としていったのだそうです。
「大泉サロン」のメンバーには、「花の24年組※3」(「ポスト24年組」含む)と呼ばれたメンバーを中心に、
山田ミネコ(1949年生・神奈川県出身)『最終戦争シリーズ』
ささやななえこ(1950年生・北海道出身)『獄門島』
佐藤史生(1950年生・宮城県出身)『夢みる惑星』『ワン・ゼロ』
伊東愛子(1952年生・東京都出身)『先生に異議あり!』
坂田靖子(1953年生・石川県出身)『バジル氏の優雅な生活』『マーガレットとご主人の底抜け珍道中』
たらさわみち(1954年生・東京都出身)『シドニー・ボーイ』『バイエルンの天使』
花郁悠紀子(1954年生・石川県出身)『アナスタシアとおとなり』『四季つづり』
奈知未佐子(1951年生・神奈川県出身)『越後屋小判』『ショートメルヘン』
波津彬子(1959年生・石川県出身)『雨柳堂夢咄』
城章子(生年不明)『見果てぬ夢』
といった若手マンガ家やアシスタントたちが挙げられており、この他、彼女たちのファンとして「大泉サロン」を訪れ、後にマンガ家になった者もいたそうです。
マンガ家としては2人の先輩である山岸凉子(1947年生)も大泉サロンを何度か訪れたそうで、竹宮惠子と萩尾望都、増山法恵、山岸の4人で45日間をかけて欧州旅行をして、これが「24年組」がヨーロッパを舞台にしたマンガを描く原動力になったとも言われています。
彼女たちは、常に数名が泊まり込み、互いの作品への制作協力や情報交換、マンガ談義に明け暮れていたといい、増山法恵の構想通りのサロンとなっていたわけですが、それは長くは続きませんでした。
竹宮惠子は、萩尾望都の才能や評価への焦りから、精神に変調を兆し、スランプ状態となったとのことで、賃貸契約切れをを理由に解散させてしまいます(竹宮が家主として契約をしていたようで、その契約を更新しなかったということのようです)。
解散後、多くのメンバーはその後も親密な関係を持ち続けたといいます。
しかし、「大泉サロン」解散後、竹宮惠子と増山法恵は下井草で同居生活を始めますが、萩尾望都は東京を離れて埼玉に引っ越して2人と絶交状態となり、現在も連絡を取っていないとのこと。
「大泉サロン」は当時ですら築30年以上の古い建物だったとのことで既に解体済。現在同所には個人住宅が建っており、当時の面影は何も残っていません。
また、当事者である竹宮惠子と萩尾望都の2人が、この「大泉サロン」について口にすることがなく、長い間タブー視されていたこともあり、世間的にはほとんど知られない存在となってしまっていました。
ところが、2016年に出版された竹宮惠子の自伝『少年の名はジルベール』の中で、多くの紙面を割いて「大泉サロン」のことが語られており、これを受け、今度は萩尾望都が、2021年に回想録『一度きりの大泉の話』を出版し、「大泉サロン」での出会いと別離について、現在の心境も交えて綴っています。
竹宮惠子は、萩尾望都とは「距離を置きたい」としか語っていませんが、萩尾の方は「大泉サロン」解散後、竹宮から作品について指摘されたことでショックを受けたと語っており、現在も当時のことを考えると体調を崩す程のトラウマを抱えているのだそうです。
2人の間に何があったのかは、ある程度想像はできるものの、今後も明確には語られないでしょうし、萩尾望都の心情を考えると、安易に町おこしに利用したり、ドラマ化などもし難い状況が見受けられます。
上記の2冊の本により、初めて「大泉サロン」の存在を知ったという方もいるかもしれません。
あるいは、「大泉サロン」の存在だけは知っていても、その実態や2人の心情など深いところまでは知り得ず、この本によってようやく知ることができた人も少なくないはずです。筆者もその一人です。
興味のある方はぜひ一読あれ。
〈了〉
神籬では、アニメ業界・歴史・作品・声優等の情報提供、およびアニメに関するコラムも 様々な切り口、テーマにて執筆が可能です。
また、アニメやサブカル系の文化振興やアニメ業界の問題解決、アニメを活用した地域振興・企業サービスなど、様々な案件に協力しております。
ご興味のある方は、問い合わせフォームより是非ご連絡下さい。
※1 竹宮惠子は、元々石ノ森章太郎のファンで、中学時代から直接石ノ森に手紙を送り、高校2年の修学旅行で上京した際には自由時間に石ノ森家を訪問するなどしていたそうです。
大学時代に編集者まわり(複数の出版社の編集者に作品を見てもらい自分を売り込むこと)の足場が欲しかったのと、プロのマンガ家がアシスタントたちと共同で作業をする場を見てみたいという希望から、石ノ森章太郎に頼んで職場に泊まらせてもらったこともあり、元々ファンでもあり、一回り年上だった石ノ森を兄のように慕っていたそうです。
そこで、上京した際に編集者に頼んで石ノ森章太郎が住んでいて、いつもネームを描いていた喫茶店ラタン(桜台駅南口付近にかつてあった店)の近くの借家を手配してもらったのだとか。
※2 この時、竹宮惠子は上京前だったのですが、講談社・集英社・小学館の3社からの連載依頼を断らずに全部受けてしまったためにオーバーワーク状態となっており、このままでは完成が難しいだろうとの判断から編集者によって上京させられ、アシスタントを何人もつけるなどして対応したのだとか。
萩尾望都が呼ばれたのは、「なかよし」に掲載予定の『アストロツイン』執筆のために講談社別館でカンヅメになっていた時とのこと。
※3 「花の24年組」及び「ポスト24年組」は、1970年代に、SFやファンタジー要素、同性愛などの概念や、複雑で励美な画面構成などを導入して少女マンガの革新に貢献した女性マンガ家たちを指します。
彼女たちは昭和24年生前後の生まれが多かったことから「24年組」と呼ばれましたが、年齢が少し低く、作風がやや異なる後輩に当たる女性マンガ家たちは「ポスト24年組」と呼ばれています。