東洋経済「アニメ熱狂のカラクリ」号の記事について考えてみた件③ 日本アニメの本質的な魅力とは 後編

前回は、日本アニメの魅力の本質がどこにあるのかについて、第1には発想力と多様性にある点について語りましたが、今回はそれに次ぐ、デザイン性、キャラクターの魅力、重厚なストーリーという魅力の部分に触れていきたいと思います。

人気作品の主人公が魅力的なのは万国共通でしょう。
強い、カッコいい、美しい、かわいいなど、その魅力の方向性はいろいろでも、主人公や、主役チームが魅力的なのは、ヒット作品の必須条件といっても良いくらいに当たり前のことです。

しかし日本のアニメやマンガでは、そんな主役のキャラクターだけではなく、数多くの魅力的なサブキャラクターたちが描かれることも特徴の一つとなっています。
海外作品の場合、主役と敵ボスがメインで他はモブという描かれ方が主流で、『X-MEN』のように数多くのキャラクターが出てくる作品は珍しく、サブキャラクターまで綿密に作り込まれるような作品はなかなかありません。
『ONE PIECE』などは登場キャラクターが総勢1000以上、主要キャラだけでも100以上にもなり、『NARUTO』、『僕のヒーローアカデミア』でも50~100以上のキャラクターが活躍し、しかもそのキャラクターたちが単なる雑魚キャラやモブのような存在ではなく、魅力的なキャラクター性やビジュアルデザイン、人物背景なども作り込まれているのです。

多様性に富んだ数多くの魅力的なキャラクターが、時には主役を食う程の活躍を見せ、ファンの心を掴むので、それぞれがお気に入りにするキャラクターの選択肢が多く、その推しキャラの分だけ余計に作品を楽しむことができます。
仲間同士でコスプレをしても、主役キャラに集中するキャラかぶりを回避できるというメリットもあるでしょう。

日本のアニメが、こたつや年中行事、学校のスタイルなど日本的なものは当然描かれながらも、宗教性やナショナリズム的な部分が極めて薄いために、海外の人たちに受け入れやすい特徴があることも指摘されています。
神様や宗教団体をモチーフにした作品はあっても、特定の宗教教義を反映した脚本や演出の作品がないといった宗教性の薄さや、特定の国を侮辱して日本だけを持ち上げたり、日本と外交上の問題を抱える国を悪のように描いたりといったナショナリズム的な作品がないことなどが、日本アニメがいろんな文化圏の国々に好意的に受け入れられる要因ともなっているのです。

前回、日本アニメの魅力の本質は、作画クオリティにあるわけではないとお伝えしました。
誤解しないでいただきたいのは、日本アニメの高い作画クオリティは海外を魅了しなかったとは言っていません。
圧倒的なビジュアルの素晴らしさという点で、そのクオリティの高さがトリガーとなってファンを獲得しているのも事実だからです。
しかし、必ずしも作画クオリティが高い作品がヒットするとは限らず、逆にそれ程作画クオリティが高くない作品がヒットするケースも往々にして見られます。
クオリティとは異なる意味で、2Dで手描き調の日本アニメ独特の作風というものが好まれるということもあるでしょう。ただし、2Dで手描き調の作品だけではなく、フル3DCG アニメーション映画の『STAND BY ME ドラえもん』や、カートゥーン調で描かれた『パンティ&ストッキングwithガーターベルト』といったような作品も海外では人気ですから、作画は必須条件であるとは言えないというのが筆者の見解です。

過去に例を見ない設定の斬新さをファンが求めるところも大きいため、常に新しいことにチャレンジせねばならず、先例にないことをやるので、それが支持されるかどうかは蓋を開いてみるまでわからず、確実性を求めることが困難です。
また、第1期で人気があったから同じ路線で第2期を製作・放送したらコケたとか、人気の原作を作画クオリティに定評のある制作会社に作らせたのに全然話題にならなかった、といったこともアニメ業界にとってはよくあることです。
こうしたところがアニメの難しさであり、ヒットの法則性を見出し難くさせている要因と言えるでしょう。

日本アニメは、菓子や玩具を売る宣伝としての役割を担う子供向けの作品から発展していった経緯があり、アニメは子供の見るものだという偏見もあって、学術分野での研究対象とされず、評論家が内容を論じる対象ともなってこなかった歴史があるため、これまでは売れたかどうか、という商業的側面でしか評価されてきませんでした。
そのため、職業評論家が真面目にアニメ作品の演出や脚本を論じ、絶賛や辛口批評が飛び交い、これに刺激を受けてクリエイターたちが評論家たちを唸らせようと切磋琢磨するような文化は根付いていません。

近年になって『新世紀エヴァンゲリオン』のおかげで、考察ブームが起きたりもしましたが、一部の熱狂的なファンたちがネット上で考察を披露し合うことが中心で、多くの考察本なども出版されましたが、あくまでファンの間で楽しまれているものに過ぎませんでした。
今回の「週刊東洋経済」のように、経済効果的な面や、企業、金の流れ、業界の仕組みなど、作品の外側を語れる人はいても、作品の中身について語れる人がなかなかいないのです(もちろん「週刊東洋経済」はビジネス誌なので、今回の特集にそれを求めているものではありませんが)。

昨今では、『ONE PIECE』の考察なども話題になり、再生数を稼げるとばかりにYoutTubeなどでも、様々な作品を取り上げた考察動画が多く見られるようにもなっています。
岡田斗司夫や藤津亮太といった一部のアニメ作品の中身を語れる論者も現れていますが、まだまだ圧倒的に少ないのが実情です。

昭和期に作られていた子供向けのアニメとは違い、現在では大人向けに、複雑な人間関係や時系列などを盛り込んだ重厚なストーリーや、哲学的だったり人間性や理性を揺るがせるような高いメッセージ性を持った作品が数多く作られています。
セリフに頼らずに絵で伝える繊細な表現やら、全てを描かず行間を読ませるような演出、さらりと忍ばせる伏線など、大人向けに巧妙に作り込まれたものも多く、そのあたりを理解できないと面白さを充分に堪能できない類の作品も増えています。
日本アニメは子供でも楽しめるやさしい娯楽作品から、文脈や見方をレクチャーしてもらわないと充分に理解して楽しめない高度なものに変わってしまっているのです。

日本アニメの特徴は多様性なので、現在でも単純で誰でも楽しめるような娯楽作品も数多くありますし、楽しみ方に正解があるわけではないので、各々がそれぞれの楽しみ方でアニメを見ても良いものではあります。
しかし、そうした全てを深く理解できない人たちであっても、作品から滲み出る深みを感じ取ってそこに魅力を感じたりする節もあり、やはり良くできた作品はヒットする可能性が高いのではと思わせる傾向も見て取れます。
子供から大人、国内外を問わず、幅広い層に支持される『鬼滅の刃』や『進撃の巨人』、『新世紀エヴァンゲリオン』などは、そうした作品の例と言えるでしょう。

日本アニメが今後さらに発展していくためには、作品の中身をしっかり分析し、何が良くて何が悪かったのかをちゃんと理解して知の蓄積を行っていくこと、そしてその知の蓄積を後世の若きクリエイターたちにも提供していくことが必要ではないでしょうか。

制作スタジオの地方化や制作ツールのデジタル化、ネット環境などのおかげで、自宅作業でデジタル納品といったスタイルも増え、さらに経費削減のために作画肯定の一部を海外に発注することもあって、制作会社に正社員雇用されていないようなフリーの若手が先輩クリエイターに学ぶ機会が奪われているという問題も出てきています。

日本アニメの歴史はすでに100年を超えており、いずれは、アニメ史学やアニメ演出論などといった学問が大学の教育科目に加わり、そこで学んだ学生がクリエイターになっていくような時代が来るかもしれません。
そのためには、作品のアーカイブ化や情報のデータベース化、それを気軽に閲覧できるような環境づくりといったインフラを構築していく必要があるのではと思われます。


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