アニメの解説書『電脳コイル』① 作品紹介・時代背景

アニメの解説書

『電脳コイル』は、2007年5月から12月までNHK教育にて毎週土曜日18時30枠で放送された、全26話のテレビアニメです。当時はまだ監督未経験のアニアメーター・磯光雄が持ち込んだ企画に徳間書店が出資し、バンダイビジュアル、NHKエンタープライズが共同出資という形で製作され、『カードキャプターさくら』や『BLACK LAGOON』で知られていたマッドハウスがアニメ制作を担当しています。

ざっくりとストーリーを紹介すると、
「電脳メガネと呼ばれるメガネ型のコンピューター端末が普及している202X年を舞台に、電脳インフラが日本第二位の都市である大黒市に引っ越してきた小学6年生のヤサコが、電脳空間や謎の電脳生物にまつわる時間に巻き込まれていく」
といった内容で、この「電脳メガネ」というものが作品の重要なアイテムとなっており、メガネを通して現実の空間に電脳世界が重なって見え、その中でしか見ることができない電脳ペットや電脳アイテムなどが存在するという世界観になっています。
これらは、現在ではARやMR※として知られる技術が元となっていますが、放送当時はまだ一般的には認知度の低い技術でした。

前提として、『電脳コイル』が放送された2007年がどういう時代だったかというと、
1月30日 Microsoft Windows Vistaが発売
6月29日 アメリカで初代iPhoneが発売
8月31日 VOCALOID初音ミクが発売
10月26日 Mac OS X v10.5 (Leopard) が発売

といった時代です。
ARが話題になり、スマホ向けARアプリ「セカイカメラ」がリリースされたのは、2009年9月のことですから、放送当時、その斬新で先駆的な世界観が各方面で話題を呼びました。
当時の状況で考えれば、まだアメリカでiPhoneが発売されたばかりで日本人のほとんどがガラケーを使用し、絵文字を駆使したメールなんかでコミュニケーションを取っていた時代であって、AR技術についても、IT専門誌に記載される程度で一般の人にはほとんど知られていませんでした。
現在ですら、まだこのようなARやMRの技術は限定的な使用に留まり、一般に普及しているとまでは言えないので、『電脳コイル』で描かれていた世界が、どれほど遥か先を行っていたのかがわかることでしょう。

では、作中の年代設定はどうなっているのかと言うと、公式での記載では「202X年」とされていますが、作中では「2026年」の文字が普通に描かれているので※、2022年の現在でもまだ近未来のお話ということになりますね。
磯光雄監督が2000年に作成した企画書には、20年後となる2020年との年代設定が記載されていることから、作品の制作が本格的にスタートした2006年にも、同じく20年後という設定を踏襲して2026年としたのではと想定されます。

「電脳」という概念は、『攻殻機動隊』※などのSF作品で描かれているような、脳の神経細胞と結合させたマイクロマシンを通して電気信号をやり取りすることで、脳と外部世界(コンピューターやネットワーク)を直接接続させる技術として知られていますが、『電脳コイル』でいうところの『電脳』は、単に電脳=電子頭脳=コンピューターとの意味合いで用いられているようで、脳の神経細胞やマイクロマシン的な概念では描かれていません。
作中には「イマーゴ」という思考から直接コンピューターを操作できる技術なんてものも出て来ますが、科学やテクノロジーというよりは、魔法のような存在として描かれており、NHK教育の土曜18時半という放送枠を考えても、あくまで子供向けの作品であって、ハードSF的な要素はありません。

言葉の意味合いだけで考えると、「電脳」というよりは、「デジタル世界」といった方が理解しやすいかもしれません。
作中には、電脳世界(デジタル世界)に巣食う謎の生命体が登場しますが、デジタル世界の生物という概念は、1996年に「デジタル携帯ペット」という触れ込みで発売されると、2年間で4,000万個も売り上げる空前の大ブームを巻き起こした携帯型育成玩具「たまごっち」や、1997年に発売された携帯ゲーム『デジタルモンスター』及び『デジモンアドベンチャー』などにより、一般的にもすでに認知度が高いものでした。

また、デジタル世界での事件が現実世界にも影響を与え、脅威になるという発想は、1993年放送の特撮テレビ番組『電光超人グリッドマン』にも見られ、中学生同士が、方や正義の電光超人と合体し、方や悪の次元犯罪者に加担する形で怪獣を生み出し、コンピュータワールド内で戦うという、当時としてはかなり異色の作品でした。

このように、AR技術とデジタル生命体という概念をベースに、『電脳コイル』という作品の世界観が構築されているわけですが、昨今の技術進歩のスピードの速さから、こうした未来のテクノロジーを扱う作品の多くが、あっという間に時代遅れになってしまう中、15年という時間を経過しても、いまだに色焦ることがなく、未来世界を描いた作品としての体面を維持できているというのは、その一点だけを以てしても、『電脳コイル』がいかに傑出した作品であるかを示しています。


※作中では、第8話でイサコとヤサコの第三小学校への転入届に、転入日の日付として2026年6月28日及び7月5日の記載がある他、5年生の時(前年)に書かれたハラケンとカンナの夏休みの自由研究「イリーガルの観察(電脳生物)」に記載された日付が、2025年8月31日となっていました。

※『攻殻機動隊』
講談社の「ヤングマガジン海賊版」1989年5月号から連載されたマンガで、1991年10月~2001年6月に単行本全3巻が刊行されています。
現在とは異なる歴史を辿ったパラレルワールドの21世紀、科学技術が飛躍的に高度化した日本を舞台に、生身の人間の他に、脳の神経ネットに直接デバイスを接続する電脳化人間や、義手・義足技術の発展形である全身を義体化して脳のみを搭載した全身サイボーグ、人と区別がつかない程高性能なアンドロイドなどが混在する世界で、電脳や義体によって高度で複雑化したテロ犯罪に対する攻性・防諜機関として設立された内務省直属の公安警察組織「公安9課」の活動を描いたサイバーパンク作品。

※AR、MR、VR
筆者の場合、当時AR技術と一緒に喧伝されることが多かった『電脳コイル』で描かれている世界観や設定がARだと誤って理解してしまったために、後にMRという技術が出て来た際に、ARとの違いが理解できずに混乱しました。こういう人は筆者以外にもいたのではないでしょうか。
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AR(拡張現実):現実の世界に映像を投影させることで、現実世界を拡張させる技術。スマホやタブレット、ゴーグルなどの幅広いデバイスで使用できる。必ずしも精巧な3D映像である必要はなく、文字情報などの安価で制作できる平面的な画像を表示させることでも成立する。

MR(複合現実):AR技術の発展型で、映像を表示させるだけだったAR技術とは異なり、3Dで精巧に作られて現実の位置に重ねられており、近づいたり回り込んで側面や裏側、上下左右を見たりもできる上、タッチして操作を行ったりもできる。さらには、MR空間を複数の人間が同時に共有体験することも可能。

VR(仮想現実):VRゴーグルなどを使い、CGで制作された仮想世界を体験する技術。ARやMRと違って、視界全部が3Dの仮想世界で現実世界の映像は見えない。
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MRというのは、「複合現実」と言われ、現実の世界に3Dの画像を投影させた上に、操作や共有もできるというもので、まさに『電脳コイル』の世界そのままです。
当時から変わらずに今もってAR技術を描いた作品として紹介される『電脳コイル』ですが、現在では、『電脳コイル』で描かれている技術はARと区別してMRと呼ばれるものとなっています。