3月17日はサンデーとマガジンの創刊日
現在、少年マンガ誌と言えば、「三大少年誌」と呼ばれるジャンプ、サンデー、マガジンを思い浮かべる人が多いのではないでしょうか?
その内の2誌である、「週刊少年サンデー」と「週刊少年マガジン」が創刊されたのが、65年前の1959年3月17日という同じ日で、このことから「漫画週刊誌の日」にも制定されています。
ちなみに、「週刊少年ジャンプ」の創刊は1968年7月11日と、この2誌から10年近くも経ってからという後発のマンガ誌ですが、現在では、マンガ誌のみならず、全ての雑誌の中で発行部数の多い雑誌となっています。
週刊誌ブームにのって創刊
まずは時代背景ですが、1950年代中頃からテレビの普及と週刊誌ブームが起こり、
1955年創刊 週刊ダイヤモンド
1956年創刊 週刊新潮、週刊アサヒ芸能、週刊漫画TIMES
1957年創刊 週刊女性
1958年創刊 週刊ベースボール、週刊大衆、週刊明星、週刊実話、女性自身
1959年創刊 朝日ジャーナル、週刊現代、週刊文春、週刊平凡、週刊公論
といった具合に週刊誌の創刊ラッシュが起こっていました。
週刊誌自体は1922年に朝日新聞社の週刊朝日と毎日新聞社のサンデー毎日が創刊されていましたが、週刊誌というのは、高い取材力によって生み出される速報性が必要不可欠なことから、新聞社しか出せないものというのが当時の常識でした。
そこへ切り込んだのが経済誌の週刊ダイヤモンドでした。ダイヤモンド社は出版社ながら経済情報に特化した独自の情報網を持っていたからこそ可能だったのです。
これに追従して新潮社が創刊した週刊新潮は、情報では新聞社には勝てないので、代わりに小説の連載を雑誌の柱にしました。
しかしてこの試みは成功して売上を伸ばし、他の出版社もこの成功に触発されて次々に週刊誌に乗り出したのです。
その内の一誌が芳文社の週刊漫画TIMESで、これが日本初の週刊漫画雑誌となります。
芳文社は、1950年に設立したばかりの歴史の浅い小さな出版社で、少年雑誌「痛快ブック」を創刊するも売上が伸びずに苦しい経営状況でしたが、再起を狙って無謀との声もあった週刊漫画誌への挑戦をしたのです。果たしてこの試みは成功し、順調に売上を伸ばして経営も安定したといいます。
小さな出版社ですら少年漫画雑誌が可能であることを証明してみせた芳文社の成功は、大手出版社の目を少年漫画雑誌に向けさせるのに充分な効果を発揮しました。
そうして創刊されたのが、小学館の「週刊少年サンデー」と講談社の「週刊少年マガジン」だったわけです。
小学館や講談社が少年漫画雑誌に乗り出した背景には、芳文社の成功だけでなく、人口統計により、団塊の世代とも呼ばれる第一次ベビーブームに生まれた子供たちが、1960年代には一斉に中学生となることから、中学生人口が劇的に増加することがわかっていたことも大きく影響しています。
小学館も講談社も小学生向けの学年別学習雑誌を出版しており、小学生人口がそのまま売上に反映されることを、身をもって知っていたため、人口統計には敏感でした。
その人口時計から、到来が確実である中学生市場の拡大を目の前にして、競合が乱立する月刊誌から飛び抜けて、週刊誌という新たな市場を取りに行くというのは、至極当然の判断だったわけです。
漫画誌創刊の攻防戦
サンデーとマガジンは同じ日に創刊というので、示し合わせて仲良く創刊したと思う人もいるかもしれませんが、そんなことは全然なく、かなりバチバチの攻防戦の末の同日創刊だったようです。
現在では露骨な対立構造は見えませんが(2009年には、サンデー×マガジン50周年コラボ企画や共同で記念セレモニーを行ったりしているくらいです)、当時の小学館と講談社は、小中学生向けの学年別学習雑誌で熾烈な競争を繰り広げていたこともあり、互いにライバル意識むき出しでやり合う関係でした。
まず初めに少年漫画雑誌創刊の決断を下したのは、小学館です。
1958年秋に週刊漫画雑誌の発行を決定すると、こどもの日である1959年5月5日の創刊予定で準備を始めましたが、年明け間もなく、講談社がこの情報を掴みます。
1959年は講談社創業50周年の年でしたから、野間省一社長は、その記念事業として少年漫画雑誌を創刊することを決め、創刊編集長に抜擢した牧野武明氏(1954年に創刊した少女向け月刊漫画雑誌「なかよし」の創刊編集長)に、小学館よりも先に出すよう厳命します。
講談社は、小学生向けの学年誌戦争において後発のために苦戦した経験から、今度こそは先発して優位に立ちたいという思いが強かったのです。
とは言え、牧野氏に正式な辞令が下りたのは1月末でしたから、編集会議を経て漫画家たちに連載依頼に走ったのはすでに2月。どう考えても時間が足りません。
漫画家の確保合戦
講談社が真っ先に依頼に向かったのは、言うまでもなく手塚治虫ですが、時すでに遅しで、手塚は講談社が依頼に来る前にサンデーの連載依頼を受けてしまっていたのです。この件は先の手塚治虫のコラムでも取り上げたことがあります。
さらに小学館は、同じトキワ壮グループの寺田ヒロオ、藤子不二雄にも連載の約束を取り付けます。※1
藤子不二雄の元ヘは、講談社は小学館から2日遅れで依頼に訪れたそうで、先に小学館の依頼を受けていたため、週刊誌2誌の同時連載は無理だからという理由で断られてしまっています。
創刊号のラインナップは以下の通り。
両誌とも、漫画、スポーツと科学記事、小説、テレビ番組の紹介といった同じような構成で、漫画半分、読物半分の総合娯楽雑誌となっています。
やはり出遅れた講談社の漫画家確保の苦労が窺えます。
小学館「少年サンデー」創刊号(1959年4月5日号)90ページ
表紙・巻頭特集・グラビア:長嶋茂雄
手塚治虫『スリル博士』(科学漫画)
寺田ヒロオ『スポーツマン欽太郎』(野球漫画)
益子かつみ『南蛮小天狗』(時代漫画)
藤子不二雄『海の王子』(冒険漫画)
横山隆一『宇宙少年トンダー』(冒険漫画)
この他、スポーツ読物、科学ポケット図鑑、探偵小説『口笛探偵長』、林家三平の笑い劇場、川上哲治の随筆、週間テレビガイド、映画・テレビ・ラジオの記事などがあります。
講談社「少年マガジン」創刊号(1959年3月26号)84ページ
表紙:大鵬
忍一兵『左近右近』(時代漫画)
高野よしてる『13号発進せよ』(科学漫画)
山田えいじ『疾風十字星』(柔道漫画)
伊東章夫『もん吉くん』(ギャグ漫画)
遠藤政治『冒険船長』(冒険漫画)
この他、野球や相撲のスポーツ記事や科学記事、川内康範の『月光仮面(第六部)』や林房雄の『探偵京志郎(ウツボ島の秘密)』といった連載小説というラインナップ。
手塚治虫は、漫画連載は断ったものの、「手塚治虫探偵クイズ」という懸賞企画で、見開き2ページのカットを描います。
さらにマガジンの方は、『天兵童子』『新吾十番勝負』『西鉄稲尾選手物語』という別冊付録も付いていました。
創刊日争い
先にも触れましたが、雑誌は後発が不利になることから、講談社の社長は、編集長に小学館よりも早く出すことを厳命しており、講談社は小学館が決めていた創刊日である5月5日より早めようとします。
ところが、先発有利なことは小学館も重々承知で、同じく相手よりも早く出そうと発行日を早め、講談社はそれよりもさらに発行を前倒しにして、ということが繰り返されます。
と言うのも、両誌の印刷所がともに大日本印刷であったことから、情報が筒抜けだったのです。
結局、両社ともに前倒しを繰り返した結果、これ以上は無理だと、仲良く3月17日の創刊と相成ったわけです。
価格競争
次に問題となったのは価格設定です。
子供がわずかなお小遣いで買うものですから、両方買われることは少なく、当然安い方が買ってもらえるわけですから、両社とも相手よりも安くしたいと考えるのも至極当然のこと。
前述通り、印刷所が同じなので情報は筒抜け状態ですから、熾烈な探り合いが繰り広げられたことは言うまでもありません。
小学館の方は、マガジンには付録が付くという情報も掴んでいましたから、同じ価格ではどうしても付録分のお得感で負けてしまうという危機感を持っていました。
そこで、小学館は相賀徹夫社長が自ら大日本印刷に出向き、マガジンが刷り始めるのを確認してからその場で即断し、サンデーの値段を入れて刷るという荒業で、マガジンの40円よりも10円安い30円で売り出すことに成功します。
初戦を制したのはサンデー
この結果、創刊号の売上は、マガジンの20.5万部に対し、サンデーが30万部で売上対決を制します。
この結果を受け、講談社は、早くもマガジン5号から30円に値下げを行い、価格差を埋めたため、価格競争は一応横並びで終止符となります。
両社ともさすがにこれ以上は価格を下げられなかったことから、価格競争は諦めたわけですが、今度は総ページ数を増やすというページ数争いを繰り広げ始め、その後、漫画家の取り合いなど、さらに熾烈な争いが展開していきます。
手塚治虫のW3事件や、赤塚不二夫『バカボン』の電撃移籍、劇画ブームに舵を切って第一次黄金期を迎えるマガジンなど数々の攻防の歴史が刻まれた後、1963年に『週刊少年キング』が創刊されて3大誌時代となり、さらに1968年に『週刊少年ジャンプ』、1969年に『週刊少年チャンピオン』が創刊されて5大誌時代へと少年週刊漫画誌の情勢は移り変わっていったのです。
現在のマンガ業界は、多様性や住み分けの時代で、1960年代のような出版社同士のバッチバチの争いなどは見られなくなりましたが、漫画週刊誌の日ということで、出版社や漫画誌が過激に熱かった時代に思いを馳せてみてはいかがでしょう?
〈了〉
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※1 小学館は、締切を守らない手塚治虫が原稿を落とした際のピンチヒッターとして、石ノ森章太郎と赤塚不二夫にも連載依頼をしたいたそうですが、手塚治虫は原稿を落とさなかったため、この2人の掲載は実現しませんでした。