打切アニメ列伝⑭ 第2のガンダムを期待された『伝説巨神イデオン』前編

伝説巨神イデオン
1980年5月8日~1981年1月30日/東京12チャンネル(現・テレビ東京)/全39話
原作:矢立肇、富野喜幸/総監督:富野喜幸/音楽:すぎやまこういち/制作:日本サンライズ

機動戦士ガンダム』が1980年1月26日に放送終了し、空前のガンダムブームが巻き起こっている中で、富野由悠季監督(当時は富野喜幸名義)が『機動戦士ガンダム』の次作として手掛けたのが伝説巨神イデオンでした。
当時のアニメファンたちにとっては、また『機動戦士ガンダム』のような作品が見られるものとの期待値が高かった作品でした。

しかし、ファンたちの期待とは異なり、制作サイドの状況を見てみると、伝説巨神イデオンは『機動戦士ガンダム』の後継として制作されたというものではありませんでした。
日本サンライズ(現・バンダイナムコフィルムワークス)が、玩具メーカーのクローバーのスポンサーで制作した『無敵超人ザンボット3』、『無敵鋼人ダイターン3』の後継作品として作られた純粋なロボットアニメが『機動戦士ガンダム』でした。
ところが伝説巨神イデオンは、日本サンライズ制作で、玩具メーカーのトミー(現・タカラトミー)がスポンサーとなった特撮・アニメ番組『恐竜探検隊ボーンフリー、『科学探検隊タンサー5』というSF冒険メカアニメの後継作品として制作された作品でした。
純粋なロボットアニメというよりは、SF冒険メカアニメに、ガンダムブームで当時流行していたロボット要素を取り入れたというのが実情だったのです。

当時の日本サンライズは、まず企画室でメカニカルデザインを起こし、それをスポンサーとなる玩具メーカーにプレゼンして了承を得てから企画を始動させるという、マーチャンダイジング(商品化計画)先行型のアニメ企画という特異なスタイルを採用していました。

富野由悠季監督は、ある程度デザインの方向性が固まり、トミーやサンライズの幹部を集めた全体会議の場でイデオンのデザインがプレゼンされたあたりから企画に参加したようです。
富野監督は、イデオンのデザインを「酷いデザイン」だと酷評しながらも、立場上、ここまで進んだデザインをゼロからやり直させる程の発言力はなく、職業演出家として、既存のデザインを最大限活かすための構成を作り上げていくことになります。

とはいえ、そこは富野由悠季監督です。そのまん素直には受け入れず、イデオンのデザインにも最低限の修正や注文を加えたりはしていたようで、敵の「重機動メカ」なども、富野監督のアイデアやイメージからデザインが起こされたとのこと。

ちなみに、伝説巨神イデオンのメカデザインは、『無敵鋼人ダイターン3』、『機動戦士ガンダム』の大河原邦男ではなく、『科学探検隊タンサー5』で「ミラクルチェンジ」という陸・海・空の変形メカのデザインを担当した樋口雄一によるものでした。

流れとしては伝説巨神イデオンは、『機動戦士ガンダム』と異なる系統の作品ではあるものの、富野由悠季監督としては、やはり前作である『機動戦士ガンダム』を強く意識し、これを超える作品を生み出そうという意気込みで臨んでいたことが語られています。
ある意味で、反骨精神の塊のような富野監督らしいと言うべきか、『機動戦士ガンダム』を支持しているアニメファンたちの期待には見事に応えず、その生ぬるい幻想を打ち砕き、度肝をぬいてやろうという確信犯的な意志が働いた結果、伝説巨神イデオンが生まれたとも言えるでしょう。

次回はその作品の内容に目を向けていきます。


『恐竜探検隊ボーンフリー』は、ミニチュア撮影された恐竜やメカなどの特撮映像と、セルアニメで描かれたキャラクターを合成した「立体アニメ」と呼称する手法で制作されており、制作の表記は円谷プロダクションで、実際の特撮映像部分は日本現代企画(円谷プロの円谷一社長や円谷プロの出身のスタッフらの共同出資で設立した映像制作会社)が、セルアニメ部分は日本サンライズが担当。