アニメの解説書『電脳コイル』⑥ キャラクター

アニメの解説書

6回目となる今回は、『電脳コイル』のキャラクターを見ていきましょう。

この作品は、商業的な要件よりも、作品作りを重視しているためか、彩度を極力落とした配色がされており、主人公であってもモブキャラのような地味な色彩で、ファッションもどこか垢抜けていない印象になっています。
徳間書店のスポンサーで、NHK教育で放送されるアニメだからこそできることで、スポンサーにグッズ販売などの企業が入っていたら、こんなんじゃあ商品が売れないと却下されていたことでしょう。

作中では、ヤサコ(小此木優子)とイサコ(天沢勇子)が対比構造で描かれています。
2000年に作成されたという企画書の段階では、ヤサコは気が強いリーダータイプとして設定されており、フミエ(橋本文恵)はおっとりタイプと、作中とは真逆の性格になっていますが、同じく気が強いイサコとの対比が描きにくいとの判断で、最終的にはヤサコとフミエの性格を入れ替えることになったとのことです。
優しいユウコから「ヤサコ」、勇ましいユウコから「イサコ」という愛称がついていますが、髪型を見ると、ヤサコがショートカットでユウコがツインテールとキャラが逆なような気がしますよね。
これは前述通りヤサコの性格が初期設定で異なっていたこともありますが、イサコの方は、兄に髪を結ってもらった幼い頃の思い出を大切にしているがための髪型であるので、敢えて性格とミスマッチな髪型にしている意図があり、であれば、その対比としてヤサコは初期設定のショートカットのままでいこう、と判断されたのではと推測されます。

ツインテールは、イサコが兄との繋がりの象徴として固辞し続けていた髪型なので、第26話でイサコが兄と決別した時、自然と髪が解け、以降のシーンでは、退院カットでも、ラストでヤサコと電話で話すシーンも、髪を下したままになっています。

登場キャラクターの中で特筆すべきは、ヤサコの祖母のメガばあ(小此木早苗)です。
ヤサコの祖母で、フミエやダイチたちが使う電脳グッズを売っているメガシ屋の店主をしており、コイル電脳探偵局の局長(会員番号 零)でもあります。
かつての古き良き物語世界では、老人は経験や知識を蓄えている存在として描かれ、未熟な主人公を導く知恵者として登場していました。ところが近年のITやテクノロジーは、技術者の研鑽や積み重ね、後継者たちによる知恵の継承によってのみイニシアティブを得られる年長者優位の世界観を打ち壊し、技術に疎い愚かな老人と、最新テクノロジーを操る賢い若者の構図に変えてしまいました。
そんな中にあって、『電脳コイル』は、子供たちはメガばあという長老の知恵に助けられたり導かれたりしながら問題を解決していく、昔ながらの物語の伝統構図に立ち返っています。
この辺りにも、我々が『電脳コイル』にノスタルジーを抱く要因の一端があるのかもしれませんね。

『電脳コイル』には、人物ではないキャラクターも多く登場しますが、中でもサッチーは印象的です。
汚い言葉を使ったり、声を荒げるヤクザタイプの敵よりも、敬語や丁寧な言葉遣いをする『ドラゴンボール』のフリーザの方が不気味で怖いと感じるように、サッチーも、「ぼくサッチー」というカワイイ声、丸みを帯びたフォルムに笑顔のイラストがついたカワイイ外見でありながら、人格がないので会話もできず、警告なしにいきなりビームで攻撃してくる無言の処刑人であるという怖さが際立っています。
ところが、物語中盤でハラケンが、「待て」「止まれ」の指示でこの怖いサッチーを従わせた頃から様相が変わり始め、大黒市内で起こる事件に対応するために台数が追加されて最終的に5台となったサッチーに、オバちゃんが「ポチ」「タマ」「チン」「コロ」「ミケ」と名前を付けていたあたりから、だんだんこのサッチーがかわいく思えてきます。
近所の家の前を通るたびに不条理に吠えてくる番犬に恐怖しながらも、一見無慈悲に思えたその犬が、実は飼い主に対しては忠実で愛情深い犬だったなんて経験がある方もいるかもしれませんが、まさにそんな印象をサッチーは感じさせてくれるのです。

オバちゃん(原川玉子)
実は17歳の女子高生なのですが、オバちゃんと呼ばれていて、実際に、制服が似合わないくらいやけに大人っぽく、身体のラインがはっきりわかるようなパツパツの黒いライダースーツを着てごついバイクに乗っているなど、とても高校生には見えません。いやむしろショタコンだったりとなぜか年増の雰囲気すらあるくらいです。
小学生目線で見ると、高校生はすでに充分大人で、今作品は一貫して子供目線を意識して演出されていることから、意図せずに大人っぽくなってしまったのではなく、意図的に大人っぽく描いていると解釈すべきでしょう。
『電脳コイル』では、登場人物が子供たちばかりなのであまり意識に上らないところですが、想定上のカメラ位置が子供目線にするために低く設定されています。このため、子供たちよりも背の高いオバちゃんがより大きく見えるというのも心理効果としてあるのかもしれません。そういう意味では、メガばあの身長が低いのも、意図的に設定されているとみるべきでしょう。
オバちゃんの大人っぽさは、子供目線での高校生の印象を示すビジュアル表現だったというわけです。

『電脳コイル』で特徴的なのは、大人と子供のコミュニケーションが希薄であること。
この作品は子供の世界に焦点を当てているために、大人の登場頻度自体が極めて少なく、出て来るのは両親や親戚、学校の先生くらいです。
注意深く見てみると、この作品に出て来る大人は、子供たちと会話はしていますが、それは対話にはなっていないことに気がつくことでしょう。
子供たちは、大人たちから小言を言われたり、怒られたりするのを、聞いてはいるけど、うるさいなと聞き流したり、本当にそうなのかなと疑問に思ったりするだけで、対話をして互いに交流や理解を深めようということをしていません。
特に印象的なのは、第24話で、大人たちが危険だと言って子供たちから電脳メガネを取り上げる場面で、デンスケが死んでしまった後、ユウコの母親が自分の体験に紐づけて慰めつつ、電脳世界は本物ではないと諭すのですが、母親の言葉はユウコの心には響いていません。
その他、全編を通して大人たちは、子供たちとは別の世界の住人かのように、子供たちの世界への介入を拒まれているのです。

唯一人異なるのは、メガばあです。
時におじいちゃんやおばあちゃんという存在は、両親が理解してくれない子供たちのよき理解者になってくれることがありますが、そうした子供に近い存在としての祖父母の象徴としてメガばあが描かれているように思われます。

また例外的に、大人が子供の世界に参加できる条件があります。
それはコイル電脳探偵局のバッジを見せた時です。
オバちゃんは第11話でバッジを見せてコイル電脳探偵局会員番号 弐であることを明かします。
第26話では、それまで全くヤサコたちと交流が描かれなかったヤサコの父・小此木一郎が、会員番号 一であることを明かし、ヤサコたちの協力者として登場します。
同話で、それまで直接手を下さずにイサコをけしかけて暗躍していた猫目宗助が、直接戦いに介入した時も、同時に会員番号 三であることが明かされています。
『電脳コイル』の作品世界では、基本的に大人は子供の世界にとっては部外者でしかなく、コイル電脳探偵局の会員である者、もしくは会員であることを明かした者のみという条件で、限定的に子供たちの世界に介入することが許されるという仕組みになっているのです。

『電脳コイル』のタイトルロゴには、「COIL A CIRCLE OF CHILDREN」という英語の副題がついています。
「COIL」動詞ではなく名詞扱いかと思われるので、直訳すると、「子供たちのサークル」となります。
上述の通り、『電脳コイル』は、大人たちが部外者で介入できない子供たちの世界の出来事を描いた作品なので、その点を踏まえると、「子供たちの世界」としても良さそうにも思えますが、「WORLD」ではさすがに仰々し過ぎますし、世界の命運を担う程の大事ではなく、もっと身近で小さな世界観との印象を持たせるべく「CIRCLE」という単語を選択したのではないでしょうか。

ちなみに、海外での『電脳コイル』のタイトル表記は『Den-noh Coil』となっており、副題もありませんから、タイトルに意味を持たせようという意図は取り払われています。